神戸ノートの自由帳
この、神戸ノートのうち、自由帳(小サイズA5版)は王子動物園のフラミンゴだと思っていたのだが、実際よく見ると写真が現状と大きく違うように思えるのです。
というように感じるが おそらく王子動物園のようにも思う
追記
写真家の井川宏之先生からご教示いただきました
昭和50年頃の写真のようです
神戸ノートには井川宏之先生の写真もあるようですので、もしかするとこの写真もそうなのかと・・
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というように感じるが おそらく王子動物園のようにも思う
追記
写真家の井川宏之先生からご教示いただきました
昭和50年頃の写真のようです
神戸ノートには井川宏之先生の写真もあるようですので、もしかするとこの写真もそうなのかと・・
写真家の井川宏之先生から、姫路モノレールの現役時代の写真をいただきましたので掲載いたします。
1973年12月の撮影のようです。姫路モノレールが休止されたのは1974年4月ですから、姫路モノレールの後期時代の現役風景となりますね。
井川先生によりますと「1972年山陽新幹線が開通して、初めて(翌年)倉敷に行き帰りの車内から姫路駅に着く前の写真です。」ということ。
新幹線の中からの撮影ということで、さらに驚きました
貴重な写真を提供いただきありがとうございました。
井川宏之先生については 下記WEBに経歴があります
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05797-2.jsp
神戸市の「神戸百景」のWEBの制作協力(写真)もされておられます
http://www.city.kobe.lg.jp/information/public/online/hyakkei/index.html
震災前にはKISS-FMの番組表の表紙写真も担当されておられた方です
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/kiss-fm-e3bc.html
去る4月29日に手柄山中央公園に「手柄山交流ステーション」がオープンしたということを山陽電鉄の駅にある印刷物で知りました。ここには「モノレール展示室」を設け、実物の車両やその資料を展示・公開するというものでした。
特に5月15日(日)までは、オープンを記念して「姫路大博覧会・モノレール展」も開催されています。
そもそも姫路市営モノレールは、昭和41年、姫路大博覧会開催にあわせて作られたものです。歴史的にも東京モノレールに次いで全国2番目というかなり早い時期での出現であったように思う。
ただし、この全国2番目というものは、当時のふれこみであり、事実ではないようにも思う。
当初は、路面電車や地下鉄に変わる「第三の交通機関」として、脚光を浴び、将来的には路線延長し、各地をモノレールでつなぐという構想も生まれたようだ。開業当初は姫路博の需要があり大盛況だったようだ。
姫路駅から手柄山までの1.1kmという中途半端な路線も災いしたように思う。これがもし路線が姫路城大手前公園-姫路駅-手柄山なら姫路城観光にも利用されたのではと思うのだが
姫路博覧会終了後は利用客が激減。開業からわずか8年の昭和49年で休止となり、昭和54年に廃止決定となった。
このブログでも過去に廃線跡を話題にしたこともある。
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_95ba.html
いわば高度成長期に出現した戦後20年を経て「姫路の復興を明らかにし、世に問う」大姫路博であったはずだ。
計画は姫路市の戦後復興を指導した石見元秀市長によるもので、石見元秀市長は「姫路市営放送」(JODR 580KHz 50W 予備免許のみで開局に至らず)の計画など、このブログでも過去に話題としたこともある
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-c54f.html
姫路モノレールは、全国でも数少ない「ロッキード跨座式」と呼ばれる規格を採用した。これは、現在は一般的になったタイヤを使う「跨座式」とは異なり、鉄レールと鉄車輪を使う方式。
そのため、鉄道と同じく最高速度は160キロでの運転が理論上は可能だったらしい。ただし姫路の1Km路線では、途中に駅あるなど無理があり、最高速度は50km/hとなっている。
私は、直感的ですがロッキード社と日本側の企業が川崎重工関係であるという兵庫県に縁のある企業であることも大きかったように思えてなりません
なお、私は5月7日に、訪問しましたが土曜日ということで客の入りは非常に少なかったように思います。
再現された、手柄山駅には当時の看板が再現されています。いかにも高度成長期らしく私好みです。
特に驚いたのは、須磨浦山上遊園の看板。この年「カーレーター」(全長91m勾配25度のゴンドラ・・というよりベルトコンベアにを応用したようなもの)が誕生したことが書かれています。イラストはロープウェイとリフトですが
右側に描かれているのは「ドレミファ噴水パレス」ですね
こちらも1987年に無くなりましてひさしぶりに記憶が蘇った感じです。
どことなく「兵庫百景」の川西英先生の作品を感じさせるイラストです。(#93 須磨観光リフト)
http://www.city.kobe.lg.jp/information/public/online/hyakkei/works/works10.html
川西英先生は1965年に亡くなられていますのでそれ以前の作品なのかも知れませんね
駅にあった広告では、お酒の「灘菊」・お菓子の「御座候」などは今でもわかるのですが、「姫路メガネセンター」は今では想像がつかない。めがねの三城だろうか?
なお、手柄山のモノレール展示室は、山陽電鉄手柄下車、西へ約10分です。駐車場側からエレベータが利用できるので、それほど坂を登らなくても大丈夫でした。(エレベータ前が下記の写真の現在位置)
なお、姫路市立水族館は7月2日リニューアルオープンの予定です。
しばたはつみさんが急死されたことを知り、先日このブログでもサンテレビの「神戸の恋人」を紹介したのですが、この曲は正しくは「ムッシュ神戸」という曲みたいなのです。
なぜ、わかったかというと先日来ここのブログで若き日の小曽根実さんを紹介していたんですが小曽根実さんを撮影されておられた写真家の井川宏之先生が、この曲は小曽根実さん作曲のムッシュ神戸であると、メールでレコードジャケットの写真を送っていただいたのです。
「このレコードは1981年に小曽根さんのお店でいただきました。」とコメントがあり、調べますと確かにシングルレコードとして
発売されています。小曽根実さんがしばたはつみさんに曲を作っていたということは知りませんでした。
しかし、世の中には不思議なことがあるものです。小曽根実さんとしばたはつみさんがサンテレビのイメージソングを作っていたとは思っていませんでした
小曽根実さんが作曲されたものであるため、サンテレビもテーマに使っていたのだと思います。
ちょうどサンテレビが長田からポートアイランドに移転した時期なのですね。
ムッシュ神戸
作詩:藤田恵子/補作詩:山口洋子/作曲:小曽根 実/編曲:前田憲男
1981.3.30 PES-8060-CP A面
http://www.youtube.com/watch?v=ppQ-KDf41Io
レナウン娘しばたはつみさん急死(デイリースポーツ3月30日記事)
http://www.daily.co.jp/gossip/article/2010/03/30/0002823738.shtml
http://youtubo.pya.jp/dl.php?vid=0c5Ob6u5A_U
ある方に教えていただいた サンテレビで一時期流れていた「神戸の恋人(サンテレビ)タグを見ますと 歌手はしばたはつみ さん・・ということ。ご冥福をお祈りします。
小曽根実さんが、読売TVの11PMに出演されておられた時代、ラジオ関西のサテスタでご活躍のころ写真家の井川宏之先生が、さんちかサテスタに通い、小曽根実さんにモデルになってもらい写真を撮っておられたようです
このことは先日のブログ記事でも紹介しましたが、早速その様子を撮影した写真をいただきました。掲載許可もいただいております。
当時井川先生はアマチュアでしたが、その後レコード会社から依頼され、さんちかサテスタやサンテレビ、市内のレコード店前などでプロ歌手も撮影されていたようです。さんちかのサテスタで写真を撮っているとレコード会社からカメラマンとしてスカウトされたということなのでしょう。その後井川先生は神戸市の広報紙である市民のグラフこうべのカメラマンになられるのですが、デビュー当時の田中さなえさん(当時サンテレビで神戸市の番組担当)など現在のラジオ関西関連の方々とも交流があるようです。
井川宏之先生については下記に紹介があります
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05797-2.jsp
いつも貴重な写真のご提供ありがとうございます。
ラジオ関西1968年ごろのさんちかサテライトスタジオ
日曜日 午後1時30分から2時29分の「ハローサンデーアフタヌーン」(兵庫トヨタ提供)
ラジオ関西公式WEB「番組表で見る50年」の昭和43年を参照
http://jocr.jp/timetable_50th/index.html
左端は、アシスタントの井口真知子さん。左から2人目は司会の高橋さん?ラジオだから原稿をモロに読んでいる感じ。
左から3人目はゲスト歌手、後ろのギターはひげの奥村英夫さん、エレクトーン?の小曽根さん、右奥は西野さん?
すなわち、番組表では エレクトーン小曽根実とあるが、実際には小曽根実トリオが演奏を担当するという豪華な内容であった。
ゲスト歌手も後年のカラオケテープで歌うということではなく、小曽根実トリオの演奏で歌っていたという証拠でもある。
小曽根実トリオは、読売テレビの11PMの放送のために結成されたらしいが、実際にはラジオ関西のサテスタの日曜日の顔であった。
この写真からもわかるようさんちかサテスタの前は黒山の人だかり状態であった。
なお写真の右端にある赤いラジオ関西の看板は「現在の放送」と「次の放送」が表示してある
ただし、写真では現在の放送の部分にはランプが点灯しているため文字は白とびで読めない
なお、次の番組は「サテスタで歌おう」(大関提供)午後3時~3時30分、
さらに午後6時~7時までは「さんちかサンデープレゼント」出演は、西條遊児・笑児さん。
日曜には、3つの番組で合計2時間30分もさんちかサテスタからの放送でした。
平日のサテスタ番組も凄く、12時30分から13時は「サテスタお昼のプレゼント」
月曜:笑福亭仁鶴、マリアリグレステイ 火曜:三浦ひろあき、白石公子 水曜:高橋丈二 鈴木美智子 木曜:木村忍 吉見祐子? 金曜:高橋丈二、川野春美、小曽根実
15時~15時15分は「さんちか サテライトジョッキー」 木村忍が月~金担当 彼はKBS近畿放送等でも番組を持っていた
毎日さんちかで放送しているのでラジオ関西のアナウンサーかと思ったことがあった。この番組は長く続いた
18時からは、他局がプロ野球中継に入る中、サテスタから「サテスタで逢いましょう」逢いましょうという単語が凄い
月曜:森野福郎 河野春美 火曜:大牧暁子 他? 水曜:西川ひかる 他? 木曜:夢野タップ 他? 金曜:いソノてルオ 他? 土曜:栗原令児 小柳絹代
出演者のなか 三浦ひろあき、河野春美、大牧暁子、小柳絹代はラジオ関西アナウンサー
さらに 18時45分から19時までは サテスタ ニュースブレイク 西沢あきらさんが毎日担当
その後、19時からは電話リクエストという時代でした。
また、サテスタから放送ではないのですが、12時から12時30分の平日(月~土)は「桂三枝の歌謡曲だよ歌謡曲」という帯番組を担当されていました。
1回30分といえ、1週間で計3時間、桂三枝さんが ラジオ関西で帯番組を持たれていたというのは意外に思われるかも知れません。
ラジオ雑誌の「ランラジオ」では、桂三枝を世に出したラジオ関西という記事も見た覚えがあります。
ラジオ神戸の時代では、桂米朝師匠も「神戸寄席」という番組に出ておられたようで、過去のラジオ関西の番組は、大阪局に対抗して勝負できる番組を作られていたことがわかります。
先日、写真家の井川宏之先生にお話を伺うことがありました。この日曜日のサテスタの放送にいつも遊びに行き、小曽根実さんにカメラのモデルをお願いしておられたようです。井川宏之先生と小曽根実さんは現在でも良くご存知の仲だそうです。井川先生は神戸市の「市民のグラフこうべ」などの広報印刷物の写真を担当されておられたので、神戸市提供のサンテレビ番組を小曽根さんが出られておられましたから、おそらくつながりはあるかと思っていましたがラジオ関西のサテスタ時代からの縁なのですね。驚きました。
ここでは、井川宏之先生からいただいた昔の写真と、現在の姿(私の撮影した写真)を紹介します。
このシリーズは大好評をいただいており、過去に紹介した写真もまとめてみます。
初代さんちかサテスタは、三宮センター街入り口付近から地下に入る階段を降りたところにありました。
これは現在の画像です。キャッシュコーナーや店舗になっていますが、昔はちょうどお客さんが北向きになるように座席も用意されていました。
しかし、その座席だけでは足りず、階段が見学席のようになっていました。
スタジオは金魚鉢のように前面ガラスがありました。
ここにチコとピーグルスのような大勢のグループでも入って歌い、後ろにはミキサーの操作卓などが置かれていました。後ろには別室(楽屋的な小さな部屋)もあったようです。
スタジオのガラスには、カーテンが引かれており、放送をしていないときはスピーカからラジオ関西の放送が聞こえていました。
1969年5月のサンテレビ開局のときには、ラジオ関西から大量の出向者が出たため、当時のラジオ関西労働組合は、サテスタの前に張り紙をして
このままでは、サテスタの放送もできなくなるかも知れないと、市民に訴えていたようです。
そして、さんちかが改修工事がされて、さんちかビジョンシアターというスペースが設けられました
上記は、現在の写真なのですが、これは、さんちかの南北に走るメイン通りの中央付近にあり、現在ではさんちかインフォメーションとなっている付近にステージが設けられ現在の夢広場の所にはテレビモニターが置かれ、国際会館に向かう通路にもモニタースペースがありました。
上記の写真は、ありし日のさんちかビジョンシアターで、ラジオ関西の番組を放送しているところです。さんちかのサテスタのラジオ放送の様子がテレビモニター画面を通じて配信されていたのですね。
これが、さんちかビジョンのモニターです。現在の夢広場です。
これが、阪神淡路大震災まで続きます。
震災後は、さんちかビジョンシアターは潰され、店舗となり、夢広場にあったモニター置き場がサテスタとなりました。
場所は、神戸交通センタービルから降りたところで、さんちかの入り口ともいえる場所です。
いつも、夢広場では面白い展示やイベントの告知がされています
現在では「昭和の文具展」というイベントがあるようです。(3/18-23)私もぜひ行きたいと思っています。神戸新聞とサンテレビが後援しており、今年で2年目(2回目)ということです。
先日、小曽根実トリオの懐かしいCD 11PM を紹介した
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-fc0c.html
すると、思いがけない反応があった(CDの写真を見て)「トリオなのに4人いますね」と。
確かに、トリオは3名であるはずだ。音楽だからボーカルがいたのか?
チコとピーグルスのように、○○と小曽根実トリオというように女性と組んでいたのかと思ったが
このCDには歌入りというものは存在していない。しかも、この女性が歌を歌うようには見えない。
しかも、このCDにはもう1枚写真があり、これはLPレコード時代のアルバムのため、写真は複数ある。
解説の印刷物から想像すると、この女性は「安藤孝子」さんではないだろうか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E5%AD%9D%E5%AD%90
11PMの初代アシスタントであり、京都の芸妓出身という雰囲気、インターネット検索で出てくる画像からも、おそらく間違いではないはずだ。
WIKIでも11PMについて、安藤孝子、藤本義一などは明らかになっているが、黎明期の9年もレギュラーであった小曽根実さんの記載はない。
また、このアルバムの名称にもなった11PMのテーマ(読売製作分 火・木)についてもWIKIに記載がされていない。もちろんこのCDにはYTV製作の11PMのテーマと明らかにされている
http://ja.wikipedia.org/wiki/11PM
なお、このアルバムはLPのときA面が舶来の曲、B面が和製の曲と「まるで三の宮ショッピングセンターのバーゲンセール」と解説に書かれている。
実に「神戸的」な解説があちらこちらに見られる。
私は、どちらかというとラジオ関西でやっている「歌のない歌謡曲」の演奏に近く、ジャズの演奏としてではなく、11PMの番組内でもポピュラーや歌謡曲をハモンドオルガンの演奏として聞いてもらおうという
きわめて万人うけを狙ったものといえると思います。
ただ、この当時の地方の音楽タレントは、実業家であり、音楽活動もされているというイメージがあります。
CDのあちらこちらにも神戸を感じるものがあり、YTV=大阪ですが、この11PMの関西製作は神戸色、京都色などもあったという感じがします。
先日ポートピア81のアマチュア無線館(8J3ⅩPO)の話題をしたところ、数名のアマチュア無線家の方から反響をいただいた。
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-87a7.html
そうしているうち、写真家の井川宏之先生からさらに当時のアマチュア無線館の内部写真も送っていただいた。
この写真は、もともとモノクロ撮影だったのかという素朴な疑問を質問したのですが「この写真はすべてモノクロの、未使用写真です。」とのご返事。
貴重な写真のご提供に感謝いたします。ポートピア81は高度成長期ではなく、安定成長期ですがラジオ関西やサンテレビという神戸メデイアにとっては大きなイベントであり、アマチュア無線家にとっても自力でのパビリオン参加という意義あるイベントでした。
この写真を見て驚くのは、写っている人々が「若い」ことです。当時は中学・高校・大学生のアマチュア無線家が結構多くの割合を占めていました。
現在はというと、定年退職後の趣味のようになっています。もちろん当時は若者趣味だった、ハムも、就職などでアマチュア無線という趣味を離れてしまい、
定年退職を機会に再開され、その変わりように驚かれる方も多いようです。私は開局33年になりますが、ハムの資格免許取得は、それより前でした。
学生で、無線機を揃え開局するということは、金銭面だけでなく周囲の理解が必要だったからです。
写真にしてもアマチュア無線と同様、昔の理系趣味と芸術趣味が混ざったようなものですが、写真の場合は免許資格はいらないのですが、カメラ・現像・プリントは高価で、
さまざまな設備を必要としたものである程度財力が必要なものでした。
私のやっているアマチュア無線は、普通のアマチュア無線のイメージとは違うもので、無線機やアンテナ、周辺機器は自作するという電子工作の類から発展したものです。
小学校でテスタを買い、ラジオを作り、中学校でオシロスコープを買いテレビやオーデイオを作る・修理するという技術・技能を遊んで学んだものです。
結構、お金は消費してしまいましたが、それが自分の技術となり職業につながったと思っています。
そうしたアマチュア無線家の知人の中には、現在写真コンテストで入選される常連のなかにもおられました。
私は、アマチュア無線の方では交信局数が延べ2万局に及ぼうとしていたり、無線雑誌での執筆、無線連盟での委員経験もありますので2つの趣味で共通する友人・知人も多いのです。
しかし、ポートピア時代のアマチュア無線家は若いです。現在の写真や無線の趣味は平均年齢が非常に高いように思いました。
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