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2013年5月21日 (火)

サンテレビコンバータに見る 1969年当時の電波事情など

興味深い毎日新聞の記事がある。以前、ラジオ関西ファンブログで話題にしたサンテレビコンバータの記述もある。
http://mainichi.jp/area/news/20130511ddf012200013000c.html

サンテレビが開局時に目玉として取り組んだのが「阪神戦」の完全中継であることは良く知られている。
しかし、サンテレビの中継陣は、サンテレビ開局時ラジオ関西の放送第1課から組織ごと異動してきた部隊である。
今でこそラジオ関西は巨人戦のイメージが強いが「後発組」というイメージで語られることが多い。
それは「電話リクエスト」を毎日午後7時から数時間行う放送局であったためだ。
しかし、ラジオ関西は、日本ではじめて民間放送でプロ野球を開始したラジオ局という歴史も併せ持つ。
昭和30年代、いわゆるラジオの時代、プロ野球中継はラジオ局の得意とする分野であった。
テレビ局が、東京中心とする「ネット網」の番組編成であるため、関西地区のテレビ放送でさえ、巨人戦が中心で,それも、テレビドラマや提供番組の都合で「試合終了まで完全中継」という訳にはいかなかった。
それに対し、ラジオ局は地域の球団を放送するという姿勢が貫かれ、特に関西圏では大阪に本拠地を置くプロ野球チームの放送というものが多く、セントラルリーグでの「阪神」、パシフィックリーグでは「阪急」「南海」「近鉄」という鉄道会社がプロ野球チームを持っていた。
明らかにパリーグは多くの球団が関西に集中し、関西人であっても特定の球団を多数が応援するということはない。しかしセリーグは人気がある巨人をはじめ、各地の大都市のチームが多く盛り上がるうえ、関西地区は阪神しかチームがなくパ・リーグの状況とは大きなちがいがあった。そのため、パ・リーグで優勝を続ける阪急(や南海・近鉄)には人気がなく、阪神は負けても人気があるという感じであった。
特に南海は、南海電鉄の関係もあり「和歌山放送」ひいては毎日新聞の影響があった。
兵庫県では「西宮市」が甲子園球場、西宮球場という「阪神・阪急の本拠地」をもち、阪急が「関西テレビ」(ラジオ関西がKTV設立に関与した)の縁でフジ産経グループとの縁があった。ラジオ関西社長がKTV副社長時代には、ラジオ関西開局10周年が大阪の産経ホールで行われたり、毎年西宮球場で「ナイターコンサート」なども行われた。
阪神は朝日新聞・朝日放送グループと縁が深く、テレビが巨人戦主体のため「巨人ー阪神戦」は人気が高くなり、ラジオ関西は結果として「阪急戦」中心、特に在阪球団を放送していた。
当時は、パリーグも人気があり 当時の番組表を見ると大手スポンサーがついていた。阪神戦は中継するが、大阪局に負けるということがあったのではと思われる。
特に1963年には、パリーグの中継では相当の実績をもち、地方局と独自のネットを構築しようとする動きがあったことは、当時の社報でも明らかにされていた。
しかし、1964年JRN、NRNが発足することになりラジオ関西はプロ野球中継を断念することになった。
その結果生まれたのが、プロ野球が無い時期に放送が好評だった「電話リクエスト」という音楽番組をプロ野球の放送時間帯に行うという「7-7電話リクエスト」(7時から7日間)が誕生した。
このような、プロ野球中継の辛酸をなめた「ラジオ関西プロ野球中継陣」が、サンテレビ設立時に25名、出向や移籍という形で番組作成をした。
ラジオ関西のプロ野球中継陣のうち、アナウンサーとして加わったのは 管理職アナだった松島武雄さん。ラジオ関西60周年の記念番組で「サンテレビはラジオ関西に足を向けて寝られない」と表現されたぐらいだ。

そのほか、フリーアナとしてラジオ関西で夕方の帯番組「サテスタ・ニュースブレイク」を数年担当していた西沢あきらさん(元ラジオ大阪&CBC)が加わった。
ラジオ関西のプロ野球アナは「奥田博之」(ラジオ関西でアナウンス部長 後にフリー)「下山英三」(プロ野球がなくなった1964年頃よみうりテレビへ よみうりテレビでアナウンス部長)がいる。
奥田博之さんは、読売テレビ系列の「2時のワイドショー」の司会で有名だが、サンテレビでもプロ野球中継陣にも入った。

さて、サンテレビが開局した1969年という時代を改めて考えると、ラジオ関西が野球中継をやめたのが1964年であるから5年の時間が経過しているが、開局準備のこともあるからラジオ関西の中継陣のサンテレビ移行がうまくいったとみていいだろう。
1964年(昭和39年)は東京オリンピックによりカラー放送が普及されたように言われているが白黒TVでも普及9割の時代で、カラーテレビは1%にも満たない時代であった。カラーTVは1969年でも世帯普及率は4.4%というデータが社団法人 家庭電気文化会のWEBもある。 理由は高価であるからと想像できる。
テレビの世帯普及率でカラーが白黒を上回ったのは、1973年であるという。そういえば、この時代でもTV番組欄に「カラー」表示があったと思う。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2650.html
http://www.kdb.or.jp/syouwasiterebi.html
UHFテレビの普及率というと 1969年に民間放送のUHFテレビが出来ているのですからその年ぐらいからの発売のテレビにはUHFが受信できるものが多かったはずです。しかし、すでに市場に出回っているテレビはVHFしか受信できないという現実があった。
当時、テレビは高価な時代ですから、1インチ1万円というのが昭和40年の相場です。14型が14万、20型で20万円です。公務員初任給:21,600円、日雇労賃:972円、週刊誌:50円の物価水準ですから買い換えはすぐできそうにありません。
http://okwave.jp/qa/q1267190.html
昭和40年頃の、23~27歳くらいの年収 40~70万円くらいということですから年収の半分をテレビにということになりますと 300万円の年収では150万円を覚悟ということになります。
したがってテレビなどの家電製品を購入するのにもローンを組むことがあり、家電メーカーでは系列のクレジット会社を作っていたぐらいです。
サンテレビコンバータを野球場で配るというのは、数年前のヤフーBBモデムを町で配っていたことをその時代に実践されていたことになります。今のように安いテレビをかえばいいという時代ではありません。
室内アンテナは付属していましたが、実際大阪で受信するのにはアンテナを立てるのが普通でした。テレビ大阪という大阪府のUHF局が無い時代、大阪府の家庭がUHFアンテナの神戸の摩耶山に向けるというのが一般的でした。
このような形で大阪府のUHFアンテナは兵庫県に向けられるということが一般的になったのです。テレビ大阪が開局したのは1982年のことです。それまでは、UHFといえば京都のKBS、兵庫県のサンテレビのみでした。サンテレビは摩耶山から大阪方向に電波を出しているため大阪市内でも良好な受信ができました。

さて、サンテレビコンバータは、開局直前直後の時期に配布されたもので、私が持っていたものは神戸市のDXアンテナ製のものでした。
UHF36チャンネルの電波の周波数を VHFの空きチャンネルの3チャンネルに変換するものでした。VHFのテレビ電波もUHFのテレビ電波も同じ方式のためこのような芸当ができたものです。

さてこの頃の電波事情を示したものとして わが国初の地方自治体による民間放送局設立運動: 姫路市放送局を中心として 京都大学 三輪仁さんの 論文があります。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006623924
これは、予備免許を受けながら開局できなかった姫路市営放送局JODRのことを主に取り扱った論文です。
開局できなかった理由も興味深いところであった。「予備免許の期間延長の審議に先立ち近畿電波管理局長らが姫路の現地視察を行ったが、そこで目にしたものは、商店街までもが反対運動に参加し、協力しない、スポンサーにもならないと宣言している状況・・」

「高域の周波数をラジオ神戸の弊害が顕在化するなど・・」580kHzの予備免許を受けた姫路市営放送が開局しておれば 1490から560KHzへのラジオ神戸の移行も難しかったはずだろう。

さらに同論文は「姫路市の電波空白地化」の例として、ラジオの姫路放送局の廃止、テレビの姫路地区への割り当てが京阪神地区への移転が行われ、「朝日、毎日、産経、読売という全国紙と資本関係をもつ4局の広域エリア局」が誕生したことを揚げる

ただし、この当時の姫路市のテレビ電波事情は「姫路市では高性能アンテナを立てても市内ではほとんど受信できない状況」が続いた(同論文110ページ)
1954年 姫路市は小規模テレビ局開局をめざし、ラジオ関西・神戸新聞・兵庫県と協調したという。これは、ラジオ関西50年誌でも、関西テレビ開局後も、ラジオ関西は「姫路市」でのテレビ局免許申請をしていることが明らかにされているので間違いないだろう。
ただし、姫路にVHFテレビ局を設置するということは、姫路を近畿広域エリアから独立するという内容であった。
当時大阪広域民放4局も難聴対策として中継局設置が申請されたが、姫路テレビ陣営との対立を考慮され、姫路のVHF中継局は見送られ、姫路市内のVHF-TV難聴は長期化する。

したがってUHFによる姫路中継局ができても放送されるのはNHKのみという時代が続く。

1967年10月兵庫県へのUHF親局チャンネル割り当てが行われるが、神戸市を本社とする「兵庫テレビ(後のサンテレビ)」開局、他の広域局を姫路に中継局を開局するというものであった。
肝心の当時の姫路市 石見元秀市長は1967年4月の市長選挙に敗れているため、計画は頓挫したことになる。

サンテレビ開局には、このような歴史的背景があり、UHFテレビの中継局も 相当エリアが広いものであった。
姫路のUHF中継局は開局しても、その電波が確実に届くとは限らない状況だった。VHFは回り込む電波もUHFでは光に近いため直進し減衰も大きいことがある。
したがって、生駒山にある関西広域VHFテレビの電波が届く地域は明石市域ぐらいであり加古川や高砂は UHF中継局からの距離もあるという、またもや「電波の谷間」問題が生じていた
この時期 テレビ電波事情がこのようなものであった

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コメント

昭和40年代に入り、全国でUHFテレビ局の放送が次々と始まったころ、
オールチャンネルテレビが行きわたっていなかった時代のテレビ受像機においては、
UHFテレビ受信のためのコンバーターは、まさしく、
VHFテレビだけしか受像機能がないテレビでUHFテレビを見るために必要なツールだったのではないかと思います。
この「コンバーター」の、UHFテレビ局を受信するエリアにおいてVHFのみの受像機を保有する世帯への普及が早い段階で進んだ事が、
サンテレビの媒体価値を、近畿広域テレビ局とそん色がないくらいにまで高めたのではないでしょうか。

ひるがえって、テレビ大阪は、生駒向けUHFアンテナの普及に相当な苦戦を強いられ続けたのではないかと思います。
テレビ大阪は、本放送を始める約4か月前から、試験電波を発射し、その段階からUHFアンテナ普及促進を目指しましたが、
キー局に受け入れるテレビ東京の目玉番組が限られ、テレビ大阪自身の自社制作番組が少なくて魅力がなかった背景などもあり、
生駒山基幹局エリア内でのUHFアンテナ普及率の伸びが思うに任せず、
本放送開始後も、景品付きの普及キャンペーンを幾度となく実施してきたものの、
生駒エリアでのUHFアンテナ普及率を5割に乗せるのにも、かなりの年数をかけたものと思います。

らぶSunさん ごぶさたしております。
サンテレビコンバータはどれほどつかわれていたかは不明ですが、非常に興味深い商品だったと思います。捨てずに置いとけばよかったと思っています。どうずこれからもよろしくお願いします

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