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2012年7月16日 (月)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第23週 森重貴美子・富本孝子さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第23週 森重貴美子・富本孝子 さん 

お話の要点
23週は2人の女性アナウンサーの登場
まず、森重貴美子さん。昭和42年入社、(3年程度の在職)ということ。 次に「とみもとたかこ」さん。昭和46年入社 3年間在職 
退職後「いりえたかこ」という名前で10年ぐらい活躍されたという。
(ここで、「三上公也の朝は恋人」時代、「おはようコープです。」のレポータをされておられたことを思い出しました。
声は当時と同じです。当時はとみもとたかこさんと同一人物とは思いませんでした)
森重さんが退職され、その後釜が偶然とみもとさんという関係になるのですが職場では接点はないということ。
ところがこの2人は現在も仲良くつきあっておられるということ。
大学の放送部が同じということ、予想通り関学大の放送部出身と放送で言われていました。

出会いは退職後の1983年大阪城博覧会で連日会場でステージがあり、ここで出会った。
そのときのステージイベントのトップが田淵あきらさんだったという。
大阪城博覧会以来、個人的につきあっている。

森重 入社のときは幸運だった。文化放送とラジオ関西ぐらいにしか入社試験は無かった。電話リクエストで、女子アナ募集を知った。

富本 森重さんとは正反対。アナウンスの専門教習所にも通って努力を重ねた。
   入社試験で奥田博之アナウンサーに面接で「あなたは美人と思いますか?」と聞かれた。今ではセクハラの質問。
   「自分ではそう思います」と答えるのだが、それが自分の転換点になった。
   当時のラジオ関西の雰囲気はなごやかであり、怒られた記憶がない。

森重 Gパンや、ミニスカート当時の流行の洋服を揃えた。小山乃里子さんもミニスカートをはいていた。リーダー的存在。

富本 お金をためてオープンデッキを購入するなど、勉強家だった。つまらないアナウンサーだった。3年間がしんどかった。

森重 3年半を経過して、結婚を機会に退職した。アナウンサーの仕事を続けられなかったことは残念。

富本 声は消しゴムで消せない。憧れの職業につくことができたので嬉しかったが 責任を感じた。

番組の話 

森重 歌声は風にのってを担当 ナマ番組 ゲストに加藤登紀子、水原弘さんなど
富本 私の時代ではゲスト番組があり 山口百恵 桜田淳子 草刈まさお さだまさし が新人の時代
   さだまさしさんから、後日電話をいただいたこともある。
森重 私の時代では ご三家といえば橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦さんの時代
富本 私の時代では、それらの方々は波に乗っているのでラジオ局にプロモートで来ることがなかった。
   しかし花の中三トリオの山口百恵は学業の間に須磨まで来た。

森重 私が入社後2年後には、学生運動がさかんになった。(高度成長期は4年違うと全然違う)

富本 浅間山荘事件をテレビで奥田アナウンサーと一緒に見た。

森重 ラジオ関西で驚いたのは組合活動 学生運動には巻き込まれなかったが、会社では組合活動の洗礼を受けた。よくストをした。

林  ものすごい変革 激動 経済が大きく成長した時代 それぞれの立場で経験された いちばん動いていた時代でしょう
 
ワイド番組 女子アナの役割

富本 ニュースを読んでいない 女性の仕事ではかかった。
森重 私もニュースを読んでいない ニュースは男性のものだった。(この20年の変革だろう)

富本 ワイド560という番組が記憶に残る。山田健人さんのアシスタントをした。
   ポップメイトという女性が町に出て音を集めた。アナウンサーの役割がかわる転換点だったと思う。

高度成長期は放送がかわる時代だった。

富本 入江孝子名で、おはようコープを10年続けた。奥様レポーターという役割。いろいろな取材をした。
   最終が阪神淡路大震災の年だった。おはようコープですのイベントで但馬などにも伺った。

(最近気になること)
「ながら族」ができなくなった。ラジオを知らない世代がいるのに驚いた。ラジオはやさしくあって欲しい。
若い人でも、心に訴える包み込むような放送がいいのっではと思う。適度のスピードが求められる。
世の中がやかましい。街中がやかましい。音に鈍感となっているのではないか。憧れてもらえるラジオ番組がいい。
言葉を大切にすることが大切。個性を大切にするのとは別。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2012年3月05日(月)夜明けのスキャット/由紀さおり
2012年3月06日(火)ユーヴ・ガット・ア・フレンド/キャロル・キング
2012年2月07日(水)男と女/サウンド・トラック
2012年3月08日(木)アンチェインド・メロディ/ライチャス・ブラザース
2012年3月09日(金)イエスタデイ・ワンスモア/カーペンターズ

解説と感想

今回の放送で、2人の声の感じや、話し方にも良く似たところがあり、私は「入江孝子」さんの方は判別可能なはずですか、どちらが話されているか混同したこともあります。

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年7月14日 (土)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第22週 矢野泰三 さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 第22週 矢野泰三 さん 2012年2月27日~3月2日

お話の要点

1964年(昭和39)年4月入社同期のアナウンサーとして斉藤邦雄さんがおられる。 ご本人はアナウンサー志向ではなく、デイレクター・プロデューサ志向であったり、声優志向であった ラジオドラマとして小学生時代「君の名は」中学生時代「この世の花」をラジオ関西で聞いていた デイレクターの採用試験は落ちたがアナウンサーとして通った。 斉藤くにおアナウンサーと春川さんというデイレクターが一緒に受験した。 斉藤さんは阪大工学部卒の学者肌の雰囲気をもたれていたが、デイレクターとか音楽を作ったりする才能があった。 手書きのニュース原稿はくせのある文字が多く、悩まされた。 本当は酒が好きでなかったが、仕事がうまくいかず飲まずにはやっていられなかった。

西脇工業の渡辺先生とは飲み友達になった。

先輩アナウンサーに、松島、奥田さんとか、よみうりテレビに行かれた下山さんとかがおられたが、私は実況はできない、ニュースは読めない 洋楽には弱いときている。学生時代、新聞小説に応募したり、しゃべるより書くほうだった。 当時はオリンピックの年だったので、東京の歌が多かった。 月曜日のリクエストは西郷輝彦の君だけを 当時は、須磨の木造の社屋で西海岸の雰囲気だった。ラジオ関西のアナウンサーとしてはニュースの失敗が多かった

よみうりテレビに行かれた下山アナウンサーにはかわいがってもらった。 歌謡曲ハイライトという番組を日刊スポーツの広瀬勝さんと担当した。 歌謡曲の番組をやうようになり、深夜放送の人気フォークソング番組(ミッドナイトフォーク)が終わり、 後継番組として「レッツゴー歌謡曲」を担当したが、前番組を終わるなという雰囲気の中やりにくかった。 その中でラジオドラマを作って放送した。ドラマに合う音楽が演歌に多かった。当時は演歌のスターが多く生まれた時代だった。 歌謡曲邦楽の好きなデイレクターと出会った。

「歌うラジオ関西」という番組では奥田博之アナウンサーと曜日違いでやったが、奥田さんの曜日は圧倒的にハガキの数が何倍も多く アナウンサーとして奥田さんはすごいなあと、(同期の)斉藤邦雄さんは、斉藤さんで違うジャンルで頑張りはって、私は歌謡曲が頑張るしかないなというようになった。 試行錯誤の結果だった。

テレテレ三度笠は当初斉藤邦雄さんの担当だったが、斉藤さんがワイドワイド関西を担当されるので自分にお鉢が回った。 自分の性格にぴったりとはまり10年間小山乃里子さんと一緒にやった。 小山さんは、私の1年後輩だが、5.6年先輩のような方だった。 自分としてはテレテレ三度笠という番組は好きではなかった。 電リクのラジオ関西でしたから、その日本版として作られた。土曜午後1時から。 頑張れば頑張るほど、神戸のイメージをくずす。播磨や姫路のイメージになってしまった。関西の匂いプンプンだった。 「人の心と漂う水はどこへゆくやらつくのやら」という番組のオープニングは、3枚目だった。自分としては二枚目志向で「遠い地平線が消えて・・」(ジェットストリーム)と対象的だった。 自分のポジションは確保できたが、3枚目の定着はいやだった。

ミュージックワゴンという番組では、河野春美さんと一緒だったが、二枚目のポエムを考えた。 私のアナウンサー生活は悩み悩みながら生きてきた。 リクエスト曲「太陽がいっぱい」は、青春の中で、ジェットストリームのような番組で流したかった曲である。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)

2012年2月27日(月)君だけを/西郷輝彦

2012年2月28日(火)泪の連絡船/都はるみ

2012年2月29日(水)太陽がいっぱい/サウンド・トラック

2012年3月01日(木)さざんかの宿/大川栄策

2012年3月02日(金)みだれ髪/美空ひばり

解説と感想

私のもつ、矢野泰三アナウンサーのイメージは「演歌アナウンサー」。演歌・歌謡曲の状況模写が巧みで、船村徹一門とのつながりや、デイリースポーツでの演歌アナウンサーの連載など、ラジオ関西の有名アナウンサー。「神戸のター坊」という流し出身の歌手と一緒にされていた番組は酒場での収録のようなイメージがあった。 当然お酒がすきであったのかと思っていたのですが、実は当初は酒がだめだったという意外なお話からスタート。 仲の良かった先輩アナウンサーとして、よみうりテレビに移られた下山英三アナウンサーの話題が出ました。記録を参照しますと在籍重複期間は1年以下と思われますが矢野さんに影響を与えたアナウンサーだったようですね

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。 このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年7月13日 (金)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第21週 大牧暁子さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想

第21週  大牧暁子さん 2012年2月20日~2月24日

お話の要点

1958年(昭和33)年7月入社.教職からの転職。NHKアナウンサー入社試験を最終面接まで進んだ大牧さん。
原水爆禁止世界大会の通訳アルバイトをしたことが原因でだめだった。そうしているうち恩師に請われて高校(大学付属の)の先生になるのですが、ラジオ神戸の重役の方から誘われ入社されることになった。

もっともその役員の方と繋がりがあった訳でもなく、NHK最終面接にまで残ったということでのお誘いだったと思われます。

その背景には、当時関西テレビの設立に神戸放送が大きく関与しており(当時の神戸放送・ラジオ関西は関西テレビの設立企業のひとつです)ラジオ神戸から10名の移籍者を出して、アナウンサー不足となった事情があります。
番組でも大牧さんが、当時の須磨の社屋では、関西テレビの新入社員研修がラジオ神戸で行われており、社屋には水着が干してあったという昭和33年7月の様子を証言されておられました。
ラジオ神戸の社屋をみた印象は、まるでサナトリウムという感じだった。
8月の最初から、「ミッドナイテイング神戸」という番組を担当した。早速ファンレターが多く届いたので驚いた。
地元兵庫新聞の取材を受けたこともあった。ミッドナイテイング神戸のテーマ曲は覚えていないがスリーサウンズというグループだった。スリーサウンズの曲が1日目のリクエストになった。
アナウンサーの修行はしたことがない。アクセント辞典も入社以後に買った。東京の言葉しか知らなかったのでアクセントの面では良かったが、言葉の違いには困った。
新人アナウンサー10名(うち女子5名)の時代。
アナブースのボスが高橋さん。(高橋美子さん)
職場の雰囲気は良かった。局アナを辞めたのが1965年。結婚して辞めたが番組は続いた。
ジャズを勉強したのはラジオ神戸に来てから。末広さんの影響が大きい。ロイエルドリッジにも会ったことがある。
神戸ジャズストリートも30年になる。子育てが終わってから末広さんと海外に行くようになった。
イタリアのギタリストを呼ぶなど、若い人をどんどん神戸に呼ぶようになっている。
日本で外国のアーチストを広く呼ぶジャズフェステイバルは神戸のものが群を抜いている。
英語での交渉はどうやら大牧暁子さんが担当しておられるようだ。(英米文学科卒で原水爆世界大会の通訳の経験があることからも相当なものと思われる)
テンミュージックアベニューは、ジャズが中心でこれは末広さんが選び、大牧さんも曲を選んだ。
仲がよかったアナウンサーは西内さん。(亡くなられた)
外国人ミュージシャンへのインタビューで、英語でインタビューして怒られた。日本語でインタビューして通訳を通さなければいけなかったから。
オール・アローン・アム・アイ(パーシィ・フェイス)は、テンミュージックアベニューのテーマソング。(木曜日のリクエスト曲)
最近のラジオを聴いて、無声化ができないということが気になる。
いまだに関西弁ができない。
スタジオの中にこもってやっていく時代ではない。
いろいろなところに出ていかなければならない。
テレビで満足してしまっているのではないか。ラジオは聞いて欲しい。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)

2012年2月20日(月)モリタート/スリー・サンズ
2012年2月21日(火)スターダスト/ロイ・エルドリッジ
2012年2月22日(水)枯葉/イヴ・モンタン
2012年2月23日(木)オール・アローン・アム・アイ/パーシィ・フェイス
2012年2月24日(金)ホエア・オア・ホエン/ペギー・リー

解説と感想

大牧さんは、私が知るところでは、ラジオ関西のホットジャズラインなどを末広光夫さんと一緒にされておられたり、神戸ジャズストリートのステージ司会にも登場されるなど末広さんのとの関係を(何も知らない学生の頃は)不思議に思ったことがありました。
すでに、ラジオ関西60年の番組でも他の出演者が話題にされておられるように末広さんの奥さんが大牧さんなのですが、何せラジオ関西の女性アナは旧姓のまま通される方が多いのと、古いラジオ関西ファンの方々にお会いしたときよく話題になるネタ(嘘という意味ではない)なのだということがわかりました。
実は、この時代のラジオ関西のアナウンサー・プロデューサ等の社内結婚事情は相当の量になります。さらにフリーアナや番組関係者(電話リクエストの電話のお姉さんなど含め)まで話を広げるとさらに驚きますが、ある意味、それだけ仕事に情熱のある人たちばかりなので世界が限定されるというか、他の世界との接点もそれほどないのかもと思います
関西テレビといえば、系列はラジオ大阪と今ではなっていますが、KTV設立時とほぼ同時期にラジオ大阪(大阪放送)が誕生しています。
したがって先輩格のラジオ神戸でアナウンサー研修をするのも当然の流れだったのでしょう。
当時の神戸放送の田中社長が関西テレビ副社長兼務の時代です。
ラジオ大阪とラジオ神戸は、関西テレビを縁に急接近し、テレビとAMラジオ2局を利用したAMステレオ+映像という実験番組も放送(「コルトを持つ男」という番組名 )する時代で、ラジオ関西開局10周年の電話リクエスト公開番組も、大阪サンケイホールで行ったり、阪急西宮球場で「ナイターコンサート」も実施するなど、KTV、阪急・産経グループと親密な関係になる時代に入ります。
いずれにしても声が以前とかわらない大牧さん。林アナウンサーが22歳のときと変わらない声と表現しておられたことも、頷ける話です。

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
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したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年7月 7日 (土)

尼崎市第1回アルカイックフォトコンテスト優秀賞をいただきました

FMあまがさきの運営団体としても知られる尼崎市総合文化センター(公益財団法人)の「アルカイックホール」が30周年を迎えフォトコンテストが実施されました。
次のページに入賞作品が掲載されていますが、優秀賞をいただきました。
http://www.archaic.or.jp/30th_anniversary/photo.html
作品は、尼崎市の庄下川を通る船だんじりとアルカイックホール付近の様子です。きふね神社の舟だんじりの運行の様子を写真撮影したものです。
今回はアルカイックホールの建物を被写体のテーマとしたコンテストでした。
こういうときは祭り写真を多く撮影している私は、このようなものを選びました。
http://www.archaic.or.jp/30th_anniversary/images/photo/nishikawa.jpg
アルカイックホールは一応写っているのですが
誰が見てもだんじりを撮影している感はあります

2012年7月6日(金)~8月31日(金)まで
アルカイックホール1階総合受付付近にて展示

2012年7月 4日 (水)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第20週 三浦紘朗 さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第20週 三浦紘朗 さん 2012年2月13日~2月17日
お話の要点
入社時、林アナウンサーの上司だったという三浦ひろあきアナウンサー
昭和40年の入社(開局13年目ラジオ関西に社名変更して6年目の年)
昭和40年は、AMラジオが元気な時代。同期のアナウンサーだけでも5名。ラジオ関西の局アナは男性11名+女性10名の時代という。アナウンサーのトップは高橋美子さん。いまだに頭があがらない方という。
同期のアナウンサは5名。(注:アナウンサーの野球チーム(てんこち)があったのも今では伝説という感がある。)
前年の東京オリンピックでは東京支社にも制作編成部門を置いていたラジオ関西(オリンピック1964年当時はJRNもNRNも無い時代)
この時期、オリンピックに関連しラジオ関西のアナウンサーの退職が多く(実に興味深い話です)大量の採用時代であったという。
この同期におられたのは小山乃里子、加藤えつこ?(加藤逸子(いつこ)さんは1972入社なので別人)、高田敏子、田口昭南(たぐちあきなみと発音されていた)であったと証言された。

当時は国道2号線に面していたモルタル平屋建て。上司と部下という関係でなく夢を語り合える職場だった。
ドライビングミュージックという番組をマリアリグレステイさんと番組をやることになった。ソフトキューキュー提供。入社2年目のこと。
車の免許をもっているアナウンサーが三浦さん一人だった。そのうちJAF提供の番組をやることになった。
テレビが普及するとラジオはだめになると言われたがモータリゼーションの影響で需要が増えた。
JAFスポットは自分が退職の日まで続いた。大震災があったときにはさすがに中断したが、4月には復活した。
同期生の田口昭南とは家族ぐるみのつきあい。同じメーカの車を買った。田口アナはアナウンサ6年やり、制作・報道に移られた。
ラジオ関西では昼間の放送のチームに入った。自動車ではラジオが聞かれたためラジオは生き残った。
JAFスポットのテーマミュージックは、メキシカンズというグループのホエン・ユー・スマイリング 貴方が微笑むとき これを2日目のリクエストとした。
高度成長により、家でレコードを買うことも増えてきた。
須磨のラジオ関西に森進一が来たときインタビューをした。まさか大スターになられるとは思わなかった。その年、末広光夫さんが米国に1ヶ月行くことになり、ピンチヒッターとして、その間日曜日の電話リクエストを担当することになった。
また、ペギー葉山・水原弘ショーが明石市民会館でやることになり、ステージ司会を命じられた。わからないことだらけなので、松島武雄さんにステージの立ち方から教えてもらったことがあった。
CRミッドナイトフォークという番組があった。フォーククルセダーズの帰ってきたヨッパライをかけたがマニアの。その後「若さでアタック」という一般の番組で紹介したところ電話リクエストにリクエストが殺到した。
その頃、さんちかにサテライトスタジオができ、また逢う日までを出したが売れない状態だった尾崎紀世彦の番組を担当した。
付き人無しで、毎週神戸三宮にやってきた尾崎紀世彦さんであったが、やがて火がつき大ヒットになった。
3日目のリクエストは「また逢う日まで」/尾崎紀世彦
尾崎さんとは音信普通だったが、20年ぶりに再会した。ときどき神戸に遊びに来る。神戸の外人墓地にお祖父さんの墓がある。
尾崎さんはハワイに住んだこともありハワイアン音楽通の三浦さんとしばらく交遊が続いた。
ここで神栄さんの著作「電話リクエスト物語」の紹介がされる。
25周年特番「すばらしき仲間たち」のパンフレットの紹介。
ポールモーリアやカーペンターズからのメッセージもあった。
カーペンターズ神戸公演は大倉山の体育館でラジオ関西の主催だった。
入社した1965年は節目の年だった。新幹線で神戸に日帰りで来られることが多くなった。
スポーツアナ志向の採用が多かったが、昭和40年から13年間ラジオ関西はプロ野球を中継しない放送局になった。
(先ほど亡くなった)田口昭南アナウンサーは、野球中継がやりたくてラジオ関西に入った人。落胆したが、電話リクエストでかからない分野をめざした。
東京に行っても名前が通じる関西の演歌のアナウンサーの矢野泰三さんは数少ない存在
レコードはジャケットにも芸術性があった。
基本を大切にしたい。温故知新。原点はそれほどかわらない。いろいろとやっていかなければならない。
言葉を大事にしたい。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2012年2月13日(月)マイ・ファニー・ヴァレンタイン/マット・デニス
2012年2月14日(火)ホエン・ユー・スマイリング/メキシカンズ
2012年2月15日(水)また逢う日まで/尾崎紀世彦
2012年2月16日(木)ポケット・トランジスタ/アルマ・コーガン
2012年2月17日(金)オマージュ・ア・エネルラム・アトセニグ/ミッシェル・ペトリチアーニ

解説と感想
三浦さんは、定年退職後となった現在でもラジオ関西で複数のレギュラー番組をもち、県下のコミュニテイFMでも音楽番組をもっておられ、音楽評論家と呼ばれることがある。電話リクエストを担当したアナウンサーである。

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年7月 3日 (火)

将棋の初段免状申請

きわめて個人的な趣味の話題になるが、写真撮影の趣味もこの4年間に大きな変化を見せた。
コンパクトカメラの記録写真から、一眼への移行。D80からD300、そしてD700と所有カメラも増えた。
ローカル写真コンテストへの応募も写真雑誌への応募も、ビギナー部門から一般部門へ移行しようと試みた。
しかし、後が続かない。ついに6月はすべての写真雑誌に応募することをやめてしまった。
もちろん、仕事が忙しくなrったということもあるが、6月はほとんど写真を写さなくなっていたため空白となった。
かろうじて、動物園で撮ったものを新聞の月例に2枚だけ送付したが、写真雑誌は皆無となった。
毎年、同じものを写しているが、許せるものと許せないないものがあるようになってきた。
7月からは祭りが多いので自分が写したい記録写真の題材は多くなるが、作品として、入選するようなものは撮れないだろうし、
撮りたくないものを撮る必要はないと思うようになってきた。
一方、こどもに将棋を教えてと言われて、仕事のなかでも、将棋のプログラミングへの挑戦はかねてから思っていたことである。
小中学生時代は、将棋は好きであったが級段位に挑戦することなどは無理で贅沢なことだと諦めていたことがあった。
アマチュア無線や、電子工作を趣味とし、電子工学を職業とすることを夢見た私は、カメラでさえも記録と割り切り撮影技術には興味があっても
お金が出せないということが続いた。特にシャープ株式会社に入社してからは、パソコンに資金をつぎ込むことになった。
何せ、8ビット機でも20万円、白黒ドットプリンタに15万円、5インチの2Dドライブが2ドライブもので、30万の時代である。
今や、パソコンは5万円で、ハードデイスクが1TBが付き、カラープリンタも1万円で買える時代となったので、パソコンがお金がかかるものという感覚はなくなった。
仕事も、高校教員に転じて25年以上が経ち、資格検定への思い入れも強くなっていた。
そこで、ふと思ったのが「将棋の初段」の取得である。60の手習いにならぬうちに以前できなかったことをやろうという気になった。
各種雑誌に応募し往復はがきで点数を集めたりして、最短時間で初段をめざした。いわゆる実践派ではなく、いわゆるペーパーライセンス的なものである。
6月27日付で社団法人日本将棋連盟の初段推薦状を得て早速申請した。
このようなことをやっているから、写真の方が停滞したのだとつくづく思う。

Shodanhon

参考にした書籍

Photo

初段の推薦状(一部) 平成24.6.27付 

現在免状申請中です

2012年7月 2日 (月)

サテスタニュースブレイク 1968頃

さんちかサテライトスタジオで放送されていた
サテスタニュースブレイク 担当は 西澤暲(にしざわあきら)さん
西澤さんというとサンテレビのプロ野球中継があまりにも有名ですがサンテレビの中継をされていたのは1970年からのことです。

その前の1968-1969年にはラジオ関西で電話リクエストの放送直前の午後6時40分ごろから、さんちかサテライトスタジオで月から土の毎日生放送をされておられました

もともと、神戸出身でラジオ関西には学生時代から縁があった西澤さんですが、ラジオ大阪やCBCの局アナを経てフリーアナウンサーになられたようです。

ラジオ関西で番組を持たれていたことが縁でサンテレビの実況陣にスカウトされたのではと想像しますが、興味深いところです。当時のサンテレビ実況陣はプロデューサをはじめラジオ関西からの出向・移籍された方々ばかりですから

2012年7月 1日 (日)

サテスタで逢いましょう 1969年頃

「サテスタで逢いましょう」は昭和42年のさんちかサテスタオープンから昭和46年ごろまで続いた公開生放送番組です。
昭和42-44頃までは 午後6時から30分番組で、この時代にはさらに6時40分からサテスタニュースブレイクという番組があった。担当は西澤あきらさん。

昭和45-46年頃には、時間帯が午後6時30分から7時になり午後6時からはニュースパレードの時間となっていた。

ラジオ関西は、神戸の中心からはずれた須磨の地にあったため、神戸の中心にある「さんちかのサテスタ」は公開ナマ放送を目的に主に、タレント&局アナ出演の番組を多く放送されていた。もちろん歌手などのゲストも多く、さんちかサテライトスタジオの前は多くの人々が立ち止まっておられた。

当時のサテスタ番組は 平日が
12時30分-13時   サテスタお昼のプレゼント
15時00分-15時30分 さんちかプレゼントタイム
     さんちかサテライトジョッキー (木村忍)
 
18時台       サテスタで逢いましょう

日曜日は、さらに利用率が高く

13時30分-14時30分 ハローサンデーアフタヌーン
15時-15時30分   サテスタで歌おう
18時-19時     さんちかサンデープレゼント

などの番組があった。

ちなみに 平日の正午から30分番組(月から土)に「桂三枝の歌謡曲だよ歌謡曲」という歌謡曲DJの番組があった。

サテスタおひるのプレゼントには笑福亭仁鶴&マリアリグレステイ(S42-43年月曜担当)
めずらしいところでは 奥田博之(S42木曜)末広光夫(S42-46金曜)土曜日の小曽根実さん(S42-46)。
サテスタで逢いましょうには
森乃福郎、笑福亭仁鶴、笑福亭鶴光 いソノてルヲ  桂春之助 佐々木勉など多彩な顔ぶれが目立っていた

現在の関西で活躍される落語家の大御所的存在の方が多く出演されていることがわかる。お笑いの方々のトークとともに、ジャズミュージシャンや音楽評論家の方々も登場する音楽局ラジオ関西の番組であった。

昭和42年~47年の番組表を参考にされたい

http://jocr.jp/timetable_50th/main_69.html

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