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2012年7月 4日 (水)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第20週 三浦紘朗 さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第20週 三浦紘朗 さん 2012年2月13日~2月17日
お話の要点
入社時、林アナウンサーの上司だったという三浦ひろあきアナウンサー
昭和40年の入社(開局13年目ラジオ関西に社名変更して6年目の年)
昭和40年は、AMラジオが元気な時代。同期のアナウンサーだけでも5名。ラジオ関西の局アナは男性11名+女性10名の時代という。アナウンサーのトップは高橋美子さん。いまだに頭があがらない方という。
同期のアナウンサは5名。(注:アナウンサーの野球チーム(てんこち)があったのも今では伝説という感がある。)
前年の東京オリンピックでは東京支社にも制作編成部門を置いていたラジオ関西(オリンピック1964年当時はJRNもNRNも無い時代)
この時期、オリンピックに関連しラジオ関西のアナウンサーの退職が多く(実に興味深い話です)大量の採用時代であったという。
この同期におられたのは小山乃里子、加藤えつこ?(加藤逸子(いつこ)さんは1972入社なので別人)、高田敏子、田口昭南(たぐちあきなみと発音されていた)であったと証言された。

当時は国道2号線に面していたモルタル平屋建て。上司と部下という関係でなく夢を語り合える職場だった。
ドライビングミュージックという番組をマリアリグレステイさんと番組をやることになった。ソフトキューキュー提供。入社2年目のこと。
車の免許をもっているアナウンサーが三浦さん一人だった。そのうちJAF提供の番組をやることになった。
テレビが普及するとラジオはだめになると言われたがモータリゼーションの影響で需要が増えた。
JAFスポットは自分が退職の日まで続いた。大震災があったときにはさすがに中断したが、4月には復活した。
同期生の田口昭南とは家族ぐるみのつきあい。同じメーカの車を買った。田口アナはアナウンサ6年やり、制作・報道に移られた。
ラジオ関西では昼間の放送のチームに入った。自動車ではラジオが聞かれたためラジオは生き残った。
JAFスポットのテーマミュージックは、メキシカンズというグループのホエン・ユー・スマイリング 貴方が微笑むとき これを2日目のリクエストとした。
高度成長により、家でレコードを買うことも増えてきた。
須磨のラジオ関西に森進一が来たときインタビューをした。まさか大スターになられるとは思わなかった。その年、末広光夫さんが米国に1ヶ月行くことになり、ピンチヒッターとして、その間日曜日の電話リクエストを担当することになった。
また、ペギー葉山・水原弘ショーが明石市民会館でやることになり、ステージ司会を命じられた。わからないことだらけなので、松島武雄さんにステージの立ち方から教えてもらったことがあった。
CRミッドナイトフォークという番組があった。フォーククルセダーズの帰ってきたヨッパライをかけたがマニアの。その後「若さでアタック」という一般の番組で紹介したところ電話リクエストにリクエストが殺到した。
その頃、さんちかにサテライトスタジオができ、また逢う日までを出したが売れない状態だった尾崎紀世彦の番組を担当した。
付き人無しで、毎週神戸三宮にやってきた尾崎紀世彦さんであったが、やがて火がつき大ヒットになった。
3日目のリクエストは「また逢う日まで」/尾崎紀世彦
尾崎さんとは音信普通だったが、20年ぶりに再会した。ときどき神戸に遊びに来る。神戸の外人墓地にお祖父さんの墓がある。
尾崎さんはハワイに住んだこともありハワイアン音楽通の三浦さんとしばらく交遊が続いた。
ここで神栄さんの著作「電話リクエスト物語」の紹介がされる。
25周年特番「すばらしき仲間たち」のパンフレットの紹介。
ポールモーリアやカーペンターズからのメッセージもあった。
カーペンターズ神戸公演は大倉山の体育館でラジオ関西の主催だった。
入社した1965年は節目の年だった。新幹線で神戸に日帰りで来られることが多くなった。
スポーツアナ志向の採用が多かったが、昭和40年から13年間ラジオ関西はプロ野球を中継しない放送局になった。
(先ほど亡くなった)田口昭南アナウンサーは、野球中継がやりたくてラジオ関西に入った人。落胆したが、電話リクエストでかからない分野をめざした。
東京に行っても名前が通じる関西の演歌のアナウンサーの矢野泰三さんは数少ない存在
レコードはジャケットにも芸術性があった。
基本を大切にしたい。温故知新。原点はそれほどかわらない。いろいろとやっていかなければならない。
言葉を大事にしたい。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2012年2月13日(月)マイ・ファニー・ヴァレンタイン/マット・デニス
2012年2月14日(火)ホエン・ユー・スマイリング/メキシカンズ
2012年2月15日(水)また逢う日まで/尾崎紀世彦
2012年2月16日(木)ポケット・トランジスタ/アルマ・コーガン
2012年2月17日(金)オマージュ・ア・エネルラム・アトセニグ/ミッシェル・ペトリチアーニ

解説と感想
三浦さんは、定年退職後となった現在でもラジオ関西で複数のレギュラー番組をもち、県下のコミュニテイFMでも音楽番組をもっておられ、音楽評論家と呼ばれることがある。電話リクエストを担当したアナウンサーである。

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

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コメント

三浦紘明さんとは、昭和42年頃(高校2年生の頃)小生が市民病院に入院中、三浦アナがむち打ち症で入院されて来た時に知り合いました。
苦手な英語をやさしく教えて頂いた想い出はシッカリ記憶しております。退院後「電リク」で活躍されている事を知り、ラジ関が我が青春となりましたね
ぇ~。JAFスポット、国道29号線だより、海が見える放送局等々・・・・ラジ関が採用する音楽は他局とは違うセンスの良さがあったと記憶してます。
今でも電リクのCDを聴くと50年前にタイムスリップします。
三浦アナが、ご健在だと知り懐かしさで、コメントしました。この場をお借りして「三浦紘明さま、これからも益々のご活躍期待しております。また神戸に帰る時があれば、お声を聞かせてもらいますね。

毎週土曜日の早朝に三浦アナウンサーのお声を拝聴しようと努力(?)しています。私も定年退職まで、そう遠くない年齢となってきましたが、生涯現役を目指したいと思っている一人です。そのような面から、三浦さんに尊敬の念を抱くとともに心の支えとなっています。

杉ちゃん さん 吉田康夫さん
ごぶさたしております
私も 三浦アナウンサーとはお話させていただいたことがあるのですが、ある場所で隣に座られていた方がそうではないかと思い、「三浦ひろあきさんですか」とお尋ねしたのです。ご本人でしたがご丁寧な対応でした。いつまでもお元気で放送を続けていただきたいと私も思っています。
ありがとうございました。

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