2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »

2012年6月30日 (土)

奥田博之・マリアの電話リクエスト(録音テープから)※一部追記有

写真家の井川宏之先生から、金曜電話リクエストの奥田博之・マリアリグレステイの放送録音をいただいた。
これは、井川先生が高校生時代に録音されたものです。
今となればたしかに他の曜日と比べ、曲がかからず、話ばかりという感じです。
この日は井川先生のリクエストカードが紹介されます。

奥田博之アナ(以下奥田)「長田の井川さんからマリアさんとアッコちゃんへ」
マリアリグレステイさん(以下マリア)「はい 井川くんどうもありがとう お元気ですか」
奥田「どちらがバストが大きいのですか・・という質問が」
マリア「井川くんってまだ高校生なのよ」

アッコ「アラ」

奥田アナ「あっ知ってるのですか」

マリア「あのサンテレビによくネ訪ねてくれたりネそして写真を撮ってくれてネ」

奥田アナ「あっそう」

マリア「マリアにネこんな大きい写真をくださったり・・」

奥田アナ「あっそう で、質問。これはどうやの これはわからないね」
(話は泥沼に入る くわしくはMP3で)

井川先生は、当時からマリアリグレステイさんに名前を覚えられています。
ちょっと質問内容が質問内容なのですが、三浦さんなどの電話リクエストと比較しては風変わりというか、音楽番組なのにトーク路線ということがわかると思います

追記※  大阪スタジオのアッコちゃんというのは 板垣晶子さん。

その後 ラジオ大阪のバチョンに仁鶴さんと出演されるなど活躍されました。このブログでも過去に写真を掲載しています

http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_4646.html

2012年6月29日 (金)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第19週  殿村收史 さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第19週  殿村收史 さん 2012年2月6日~2月10日
お話の要点
開局時入社のアナウンサー1期生
開局が昭和27年4月であるが、前年昭和26年9月15日に入社してラジオ東京(TBS)のアナウンサー研修を受講したという殿村さん。
第1期生のアナウンサーは、開局第一声の皆川儀太郎アナウンサー以外は素人であったという。
皆川儀太郎アナウンサーは、当時あった「ニュース映画」のアナウンサーであった。

開局予定日(昭和26年のクリスマスの日)を控えたTBSの1ヶ月半の研修は、TBSが全国の放送局に向けて参加を呼びかけたアナウンサー研修で、ラジオ神戸、ラジオ京都(KBS京都)、札幌(北海道放送)が参加した。
そのTBSアナウンサー研修の講師には (NHKの)松内則三(まつうちのりぞう)、和田信賢(わだしんけん※NHK第1期アナ)という伝説のアナウンサーであった。
当時の須磨のラジオ神戸は、まさに文化の発信地だった.たとえば「お笑い磯馴亭」第1スタジオで公開録音 司会がうらく・さらくさん 夕方には学園放送局という番組大学の放送部から幼稚園までという番組。
CR劇団もあった。川柳コント 邦楽の番組など多彩であった。
当時は民間放送がはじまったばかりの頃。何をやっても新しい時代。
開局直後の4月10日(?)もくせい号の事故が起こった。
(注:もく星号墜落事故は、1952年4月9日に日本航空羽田発福岡行の便が伊豆大島に墜落した航空事故のことで、全員無事の誤報が出たもの。4月10日は誤報の放送の日か、何かの誤りと思われる)

この事件には誤報があった。墜落したはずの飛行機が福岡に到着したという誤報。戦後の3大誤報に数えられる。自分は報道の横にいたばかりに誤報に巻き込まれた。これがラジオ神戸の臨時ニュースのはじめであった。
クラシックの藤田光彦先生の番組で臨時ニュースが読まれた。

デンスケをはじめとする録音機の思い出
当時、録音機はテープに録音するのではなく針金に録音するものだった。西ドイツ製のものだった。
街頭インタビューは困難をきわめた。当時の神戸の人はシャイでなかなかインタビューに応じてもらえない。
「録音スナップ」という番組。泊まり明けのアナウンサーが担当した。
進水式の実況が男性アナウンサーの花の仕事。舟に乗せてもらったことがある。
須磨寺の除夜の鐘を事前に録音して失敗した。
スターリンが死亡のとき、神戸市内のロシア料理の店に取材に行ったが 期待したものとは全然違う内容でボツにせざるを得なかった。
県立芦屋高校が高校野球で優勝し、そのパレード取材に行って故障したが。提灯行列参加者に技術の社員がいて直してもらい間に合ったこともあった。
また。かんなべ国体のとき、雪の上にデンスケを置き油が凍り録音できなくなる事故も体験した。
ところが、北海道の放送局は機材の寒さ対策(毛皮に撒かれていた)ができていたので問題は起こらず関心したjことがあった。

電話リクエストの思い出 

S27年当時労働争議が多く、土曜日の泊まりを担当した、夜中の3時ごろでも私鉄情報として2時間おきに電車の運転情報などを流した。
そのとき、かける音楽の要望をお聞きしますといったところ、電話が鳴り続け寝られないようになった。
当時は夜中に、こんなに放送を聞く人が多く、夜中に電話をかける人がいるとは思わなかった。
このことを 高橋太一郎副部長に報告し、電話リクエストのきっかけとなった。

スポーツプロデューサへ

開局5年目に兵庫県で開催される国体のプロデューサになりアナウンサーを離れた。(アナウンサーをやっていたのは5年ぐらい。)
国体は、秋が王子、夏は甲子園大プール (冬は)かんなべ
アナウンサーが足らないので、MBSやKBSに応援を頼んだ。
各地の放送局から地元の出場者の部分の実況中継を送るという仕事であった。

インタビューをするとき、「そうですね」と肯定するだけでなく、「いいえちがいますよ」という否定するようなインタビューも必要。
神戸で震災が起こったとき、「どうでしたか」「いかがでした」と そういう人にやさしい面があった。
ラジオ関西が人にやさしい放送局であり続けて欲しい。これがある限りラジオやテレビが立派な番組を続けられる。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2012年2月06日(月)ラ・メール/シャルル・トレネ
2012年2月07日(火)パダン・パダン/マントヴァーニ
2012年2月08日(水)ラストダンスは私に/ダニエル・ダリュー
2012年2月09日(木)シェルブールの雨傘/サウンド・トラック
2012年2月10日(金)サンジャンの私の恋人/リュシエンヌ・ドリール

解説と感想

ご自身も素人だったと振り返る殿村さん。こちらの調査では、ラジオ関西3周年記念誌(CR手帳特別号)では、薬剤師出身の異色アナと紹介されています。
その殿村さんも、ラジオ神戸が関西テレビを設立するとき10名の出向者を出すのですが、おそらくそのときにラジオからテレビに移られるということになります。
殿村さんの名前(殿村收史/殿村収史 の2つの表記があります)で検索すると関西テレビ関係ということが辛うじて残っています。
さて、このラジオ関西60年の登場アナウンサーも、古い時代のOB・OGが目立ちます。
古い時代のアナウンサーは、ラジオ神戸に憧れ入社するのですが、テレビ開局により即戦力・経験者として、周囲の要請、本人の希望、あるいは社命という形でラジオ神戸を離れます。
しかし多くの方が、このような形で60年を迎えようとするラジオ関西に戻って声を出されています。
実は30年前の「ラジオ関西30年」の記念番組の時には、玉井孝さんが出演されておられる(30年前は朝日放送在職のはず?)のも今から考えると不思議なのですが、そこには良い意味での古い時代のアナウンサーの凄さを感じます。
なにか、ご自分の原点にラジオ神戸があるというように位置づけておられるように感じました。

なお、殿村さんは、この番組でラジオ神戸第1期アナウンサーは11名でなく9名という発言がありました。ラジオ関西社史(50年史)では10名。当時の新聞記事では11名だったようです。アナウンサー入社でない人がアナウンサー業務をされていた可能性はありますし、アナウンサー入社のはずがアナウンサー以外の業務を担当されていた可能性もあります。このあたりは今後の検討材料にできそうです
この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月28日 (木)

ギャルギャル神戸

1978年ナイターのシーズンオフに「ギャルギャル神戸」という番組が生まれた
西島三重子・谷山浩子をメインに、当時ラジオ関西の若手アナだった、三上公也・岩崎和夫さんをパートナーとした番組
番組は3年ぐらい続いた。

参考 
http://taniyama.hiroko.com/db/intro/ht-dj.html
http://taniyama.hiroko.com/om/om9907.html
99.10.17(日)記事参照

検索すれば面白いものが出てきます
http://www.youtube.com/watch?v=vDzusNqPeR4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ZOLY1YS8nBw
http://happy.ap.teacup.com/shiawaseyuki/55.html

http://www.youtube.com/watch?v=DkDRa8nGw9c

西島三重子 オフィシャルブログ
http://ameblo.jp/nishijima-mieko/entry-10612096089.html
三上公也アナウンサーとの再会を記事にされています

当時は1977年のCRミュージックスペース558という番組に中島みゆきが出演していた。これらニューミュージック系歌手がラジオ番組を持たれるのはラジオ関西が早く、特に谷山浩子さんはラジオ関西で兵庫県に伝わる子守唄や仕事歌などを取り上げる(実際に谷山浩子さんが歌われる)番組も担当しておられました。これは谷山さんのもたれた番組の中でも異色な部類だと思います。

http://www.akormerkezi.com/----_video-izle-hhhjjjf.html

2012年6月26日 (火)

ラジオ関西ホールのCM(須磨時代)

ラジオ関西の旧須磨本社1階にはラジオ関西ホールという250名収容のホールがあった。
もちろん、昭和40年代に建築された、旧ラジオ関西本社ビルである。2階はスタジオ3階以上は公団住宅であった。
ここでは、公開録音が行われたり、各種イベントの会場として使われた。
木元英治さんが、わいわいヤングという番組を平日の夕刻に収録していたことを思い出す。
ラジオ関西ホールという名称のほか、サウンドファイブという表現があったように思う。
一時期、このラジオ関西ホールを貸し出すためのCMが流れていたことがある。
もちろん、ラジオ関西ホールは現存はしないものであるが当時のラジオ関西で録音したテープがあった。

2012年6月25日 (月)

高橋伸寿さんのハローサンデーアフタヌーン(サテスタ)

先日、写真家の井川宏之先生のところにお邪魔して
古いラジオ関西の音源(オープンリール)を聞かせていただいた。
そこで驚いたのが、昭和43年ごろのハローサンデーアフタヌーンという番組。

Satesutan

兵庫トヨタの提供の時代もあったが、録音では アサヒ食品(こがねさきいか)であった。
司会は 高橋さん 小曽根実トリオの生演奏 井口真知子さんがアシスタント

おなじみのさんちかサテスタのテーマが流れる(どうやら後期の録音バージョンではなく生演奏バージョン)が終わると 番組名と提供スポンサーのクレジットが入る。その番組名の紹介が終わると、生演奏でナマ声で司会者の男性(高橋さん)が、いきなり「ららら歌いましょう ららら心こめて・・」と番組のテーマソングを歌い出しているのです。
はじめ高橋さんというと、高橋丈二さんというフリーアナがサテスタで出ておられたのでこの方かなと思ったのですが,どう考えてもこの方の歌はプロであると思いました。私でもわかるレベルですがアナウンサーがテーマソングを歌うのは少し変。しかし、おしゃべりを聞いてみるとアナウンサーというよりコメデイアンみたいです。
こちらにある資料を調べてみると高橋丈二さんではなく高橋伸寿さんでした。
調べてみると、やはりその筋では有名な歌手だったようです。

http://www.youtube.com/watch?v=OJJNReOh49A

さらに検索すれば、このような記事もありました。是非ご覧ください。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1834582&tid=a5a2a5aa5ja5aba5sa1a1a5dda5ta5ea5ia1bca5bda5sa50a4ac9a5a4ada4jjfdbd8&sid=1834582&mid=485

「その昔 高橋伸寿さんは 
今人気のピアニスト 小曽根真さんのお父さん、小曽根実さんのハモンドにのせて
毎週 神戸の放送局のサテライトスタジオで歌っておられました。
人気のあった話題の番組でした。」(
以下本文をご覧ください)

小曽根実トリオは、よみうりTVの11PMで誕生したグループですがラジオ関西にもレギュラー番組を持たれていたのです。

高橋さんのアナウンスによる小曽根実トリオの紹介の部分(短い演奏)は下記

「ozone-jocr.MP3」をダウンロード

音は悪いのですが貴重なものと思います。

このような番組が高度成長期の神戸にあったことを 知っている方は少ないのだろうと思います。またラジオ関西社員でもたしかにここまでくると知っておられる方は少ないと思います

2012年6月24日 (日)

「斉藤くにおのワイドワイド関西」から送られてきたカセットテープ

斉藤くにおのワイドワイド関西という朝の帯番組があった。

1970年代後半のラジオ関西の番組であり、キャスターが斉藤くにおさん。アシスタントが平瀬みちこさん、浅尾寿美さんが担当されていた。デイレクターは元ジローズの森下悦伸さん(現専務)とハワイアン音楽のプレーヤーとしても知られる今崎陽吉さんという音楽通のスタッフの番組であった。斉藤くにおさんも作詞作曲を手がけられる音楽通の方による番組だった。この番組では、今月の歌という手作りの歌を紹介するコーナーや、リスナーの思い出にまつわる音楽のリクエストをかけるコーナーがあった。

私が番組の思い出の歌というコーナーに投稿してリクエストを採用されたとき、ラジオ関西から送られてきたカセットテープの一部です。

Dscf0642

内容は「これが神戸市東灘区の西川敏弘君の思い出のリクエストでした。みなさんも 歌にまつわる思い出がありましたらどんどん申し込んでください。・・・・(須磨時代のあて先・電話番号を読み上げられる)」

私は、当時学校の長期の休み中や祭日であればワイドワイド関西を聞いておりました。
当時は、プロの録音機材で録音するとこんなに音がいいのかと驚きましたが、もっともエアチェックではなくスタジオの音源そのものからでした。
「saitouJOCR.MP3」をダウンロード

2012年6月23日 (土)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第18週 山田健人 さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第18週 山田健人 さん 2012年1月30日~2月3日

お話の要点

昭和36年の入社入社は昭和36年の4月の予定だったが、昭和36年3月から1ヶ月間、ニッポン放送の新人アナウンサー教育を、ニッポン放送社員とともに受けたという山田さん。ニッポン放送との良い関係の時期だったとつくづく感じます。(ニッポン放送の研修を受けていたのは他社ではラジオ関西だけとか)
もっとも当時は、テレビの普及も少なくラジオが「まだまだ元気」だった頃。当然ラジオ関西も元気でした。
ラジオ放送が今と違うところは、ひとつは放送機材(の進化)であり、もうひとつはラジオを取り巻く環境である。
ラジオ関西はテレビの出現 オイルショック 震災とさまざまな困難に出会った.
ラジオ関西は、しぶとくてここまで生き延びているが、そのたびに経営陣が変わり、年々人は少なくなっていった。

阪神淡路震災前では斜陽メデイアの代表格であるといわれたが 震災で息を吹き返した。

1年後競馬実況中継をすることになり、競馬記者クラブで、KTVの松本アナウンサー(元ラジオ神戸)からいろいろと目をかけていただき、教えていただいた。
競馬中継をするために、阪神競馬場や京都の競馬場に中継に行った。
野球中継も担当した。当時は奥田博之さんとか関西のピカイチのアナウンサーがいたので自分にプロ野球中継のお鉢が回ってくることがなかった。当初高校野球を担当した。
プロ野球中継デビューは、なんばの大阪球場で南海対東京(現ロッテ)戦。1週間後には南海・近鉄戦を担当したが大乱戦で3時間を超えるものとなった。
プロ野球中継が再開されるとラジオ日本とネットになった。奥田博之さんが大先輩だったが退社され、山田さんが残ったアナウンサーでキャリアがあるものの一人となった。
ラジオ日本のアナウンサーやラジオ日本のプロデューサ・デイレクターに鍛えられたが厳しかった。
競馬はKTVのアナウンサーに、野球はラジオ日本のアナウンサーに鍛えられたことになる。
オールスターゲームの中継では、セリーグの攻撃がラジオ日本アナウンサー、パリーグの攻撃がラジオ関西アナウンサーが中継するなど工夫をした。
開局20周年のとき、「ワイド560」(当時の周波数は558KHZ)という朝のワイド番組を担当した。
ラジオ中継車(ポップ)を走らせ好評を得た。1987年早朝の「俺だってサラリーマン」という番組
ポートピア81の開会式の式典の中継を担当した。ユニバーシアード神戸大会の開会式・マラソン中継を担当した。
ラジオ関西の電話リクエストも担当したが大阪スタジオ担当であった。ラジオ関西は音楽に詳しい人が多いのでこの分野での活躍は少ない

コミュニテイFMのお手伝いをしているので、電波行政的にも関心をもっているが、
今後マルチメデイアの帯域が生まれ、FMやAMという枠組みでなく同じ枠組みで勝負する時代となるといわれている。
ラジオ関西は、今後、過去の特性を生かすことが必要ではないか。
アナウンサーの職種をみても、今のしゃべり手には緊張感が少ないように思う

今は、アナウンサーの話に、笑いを取り入れるようなことを許されるが、昔はそれが許されない(羨ましさ)
過去には始末書に至った例もあり、当時はシビアであった(きつかった)。今はリラックスしている。
緊張があるのが、いいほうも悪い方もある。アナウンサーの話は相手との距離を測りながら話をする仕事と思うようになった。
アナウンサーの話す速度も現在は早くなっている。
ラジオとは何かを原点に戻り考えてみることも大事なことである。
ラジオを聴くひともたくさんいることも自負しながら話すことも重要。日航機事故ではニュースを読むとき体が震えた。事故は突然起こる。慣れていてはだめである。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2012年1月30日(月)そして今は/ジルベール・ベコー
2012年1月31日(火)ヘイ・ジュード/ザ・ビートルズ
2012年2月01日(水)ラジオ関西ゴールデン・ナイター/番組テーマ音楽
2012年2月02日(木)夢見る想い/ジリオラ・チンクエッティ
2012年2月03日(金)上を向いて歩こう/坂本九

解説と感想
お名前の読み方は「やまだきよたみ」さんが本当らしいのですが、私が聞いていた頃には「やまだけんじん」さん。
「やまだけんじんの俺だってサラリーマン」というワイド番組タイトルもありました。今から思うと不思議なタイトルですが。

この方も「しばらく、番組ではお声が聞けてないなあ」と思っていたアナウンサーの一人でした。専門はワイド番組というよりスポーツ中継という感じ。昔の資料では野球のほか競馬番組も担当されていたようです。
私が山田さんのお声をひさしぶりに聞いたのが、阪神淡路大震災のときの震災報道のシンポジウムで登場されたのが、当時の取締役報道制作局長の山田さんでした。
 
在職は長く、さらに現在はコミュニテイFMのFM三木の局長をされておられます。
そのようなこともあり、ラジオのプロとして50年のキャリアをもつ山田さん。実に現役時代と同様のすばらしい内容だったと思います。

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月22日 (金)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第17週 高橋美子 さん) 

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第17週 高橋美子 さん 2012年1月23日~1月27日

お話の要点

昭和28年入社すなわちアナウンサー2期生 受験者は1500名程度
同期には玉井孝アナウンサー(後の朝日放送)、藤井万里子アナウンサー(かなり早期に退職とか?)と高橋さんの3名でした。
本来は新聞記者希望であったがアナウンサーに変更した。放送は何も知らなかった。応募書類をラジオ神戸に届けに行ったがそこで放送劇団の少年ターザン役の人に渡したその人で大丈夫かと思った。入社後わかったことであるが、よく書類が総務に渡ったものだと思った。音声テストでは写真を見せられて話をするのだが、そこでオリンピックのマークがみえたので「五輪の輪が・・」とおかしなことを言ったまま、その状態から抜け出せなかったという失敗談があった。
玉井さんはNHKのアルバイトで慣れており即戦力だった。しかし女性陣はだめだった。仕事が無いのでいつも2人でいた。当時のラジオ神戸は専務以下肩書きをつけず「さん」付けの職場で誰が偉いかわからない職場だった。
犬が社内を歩く。クッキーという汚い雑種の犬だった。テニスをする人もいた。のんきな時代だが、放送は生放送ばかりで綱渡りの時代だった。アナウンサーの遅刻、ナマCMで笑うと放送事故になる。笑いをこらえるのが苦しかった。
勉強するようになったのはプロデューサになってから。アクセント辞典も小さいものしかなかった時代。知らないことは強いこと。原稿用紙が真っ白だったという夢をよく見た。あわててアナプールまで走っていくが橋っても戻れない夢。
当時のアナウンサーは男子は大勢いたが女性は2人しかいなかった。報道にじいちゃんというデスクの人。制作におばさまという個性的な人がいた。この人たちに鍛えられた。
報道のじいちゃんはアクセントにうるさい人だった。知識があるが知恵が無いとよく言われたこのことは最近になってよくわかる。おばさまはヒステリを起こすがよく物事を知っているインテリであった。
そのおばさまは今で言うアラフォー。50歳台になって結婚された。当時は公開録音が多く採算があわないようなものが多かった。楽しい時代。
当時ラジオドラマの現場を良く見た。そこでアナウンサーとドラマでは発声が違うということがわかった。
仕事の多忙で体を壊し1年間休職するはめになった。
クラシック担当の藤田光彦男爵にお見舞いをいただいたが「今度来るとき蛾のスープをもってきましょう」(藤田先生は蛾を食べることで有名)と言われ早く治さなければと思った。
藤田男爵には「じいや」さんがついておられレコードを持ってきておられた。レコードを大切にする方で藤田先生のレコードを扱うのは気を使った。
病気療養中、本を読んではいけない、ラジオを聴きなさいということでラジオ神戸を聞くと知らない声ばかりで焦った。
ラジオ神戸の上司からは働かせすぎたという詫び状が来た。かわった会社だった。やっていることが家内工業的だった。
ラジオはTVと違って音のみである。音を生かさなければいけない。ラジオは集中できる。ラジオの生きる道は空想力ではないか。見ていない方がいいのもある。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2012年1月23日(月)ハートブレイク・ホテル/エルヴィス・プレスリー
2012年1月24日(火)煙が目にしみる/ザ・プラターズ
2012年1月25日(水)真珠の首飾り/グレン・ミラー・オーケストラ
2012年1月26日(木)バラ色の人生/エディット・ピアフ
2012年1月27日(金)ラプソディ・イン・ブルー/ジョージ・ガーシュウィン・オーケストラ

解説と感想
番組ではいわれていませんでしたが、高橋さんは、ご結婚後も(神崎美子という名前で、小山乃里子さんの回で登場される上司の副部長)ラジオ関西で報道制作に携われ管理職アナとなっておられます。小山さんは「しいたけかあちゃん」という愛称で紹介しておられました。
こちらの調査では高橋さんは1968年6月ごろに退社されておられます。ご夫婦でラジオ関西におられた時期もあったようですがご主人がラジオ関西から、YTVに行かれた方ときいたことがあります。
(このようなことは放送では言われないと思いますが、いかに当時のラジオ神戸の方が他局に迎えられたかということがわかる話題と思います)。

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月21日 (木)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第16週 吉田秀子さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第16週  吉田秀子さん 2012年1月16日~1月20日 ただし1月17日は震災関係の放送が入ったため全4回の放送

お話の要点
昭和44(1969)年8月1日の入社8月入社ということで、試験は前年度短期大学在学中に受験したが最終の3名まで残っておられたが、その年は2名採用。2名の合格者という中で入社されたのが森山かずみさんということらしいのです。結局大学に編入するが、合格者2名のうち1名が辞退ということで、再募集があり、(繰上げ合格ではなく)再度受験することにしたという。
結局編入した大学はお辞めになったといわれていました。このチャンスを逃がすと2度とないと思い入社したということ。
吉田さんのアナウンサー生活の中で阪神淡路大震災は忘れない出来事。当時谷五郎さんの朝番組を担当していたが震災当日は放送担当曜日ではなかった。
子どもを家に残して会社に向かった吉田さん。途中に見てきたことを会社に入ると早速レポートをした。社屋は壁が落ちていた。
世の中には予期しないことは絶対にある。阪神淡路大震災を体験した自分にはそれ以上大きいものは無いないと思っていたが東北の震災が起こった。
入社当時、ラジオ関西の須磨のビルが建った頃。先輩がたに平屋の社屋だった。女性アナ8名男性12名以上のアナウンサー20名ぐらいの時代であった。
先輩がたは、ミニスカートなどの全盛時代。ラフな格好であったが、流行の最先端をいっていた。
入社当時スーツで行くと浮いてしまった。遊びにいくような姿で会社に行くと父親に驚かれた。
桂三枝さんや春蝶(先代)などが出演者におられ、放送局だなあと思った。
めくりの思い出。めくりとは(神聖な)アクセント辞典などをめくり、ページ数を合計したものの一番少ないものがコーヒー代を負担するというアナウンサーのお遊び。情報交換コミュニケーションの種類。ラジオ関西では今ではすることがない。

先輩に小山乃里子さん。奥田博之さん。など。アナウンサーの研修で新聞は3誌読むようにといわれ実践したところ親から文句が出た。
担当した番組はビクターの音楽番組が最初。「うっかりちゃんの吉田秀子です。」がキャッチフレーズ。阪神奥様文庫の朗読、青春ラジメニアを担当した。アニメ玉手箱が前身。歌謡曲まかせなさいという番組が岩崎さんとのコンビの最初。
青春ラジメニアは2年間のみ担当。東急カルチャーウォークの第1回が須磨浦公園でやったこと。大阪城公演の掃除隊では1000名をこえるリスナーが集まったことも思い出のひとつ。
タラコさんをつかまえるため、岐阜放送から放送したことがある。
会社を退職して2年ぐらいになる。アナウンサーは、昔は近寄りがたい存在であったが、最近はリスナーとの距離が近くなった。今は寄り添うもの。昔も寄り添うものであったが少し違う。
ラジオの番組とツイッターやブログを比べてそれほどかわらない。むしろラジオの方が優秀ではないか。
若者のラジオ離れが深刻。ラジコを知っていても同じ放送をラジオでやっていることを知らない大学生もいる。
アドバルーンを揚げることも大切。ライフスタイルがかわってきた。防災に強いラジオであるが、日ごろから聞いてもらえないといけない。
ラジオ関西はずっと元気にいて欲しい。あこがれや夢のある放送局だから、がっかりさせないでほしい。
60年前があるから、今のラジ関がある。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)

2012年1月16日(月)上を向いて歩こう/坂本九
2012年1月17日(火)震災特別番組のため放送なし
2012年1月18日(水)この広い野原いっぱい/森山良子
2012年1月19日(木)緑の風のアニー/ジョン・デンバー
2012年1月20日(金)あの日に帰りたい/荒井由実

解説と感想

プロデューサとして王様ラジオキッズという子供向け番組を作られておられました。女性ならではの感性とラジオ関西の特性を知り尽くした感がありました。たしか最後は報道制作部長だったと思います。

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月20日 (水)

薗田憲一とディキシーキングス-約50年前の録音

YouTubeで 薗田憲一とディキシーキングス-約50年前の録音と題するものがあった
http://www.youtube.com/watch?v=3RuvL6rK1LM
薗田憲一とディキシーキングスは、木元英治の夕空にヨイショという番組のテーマ曲の夕焼けこやけを演奏しているグループである。
名前の通りディキシージャズのグループであり、デキシーランドジャズ、ニューオリンズジャズというとラジオ関西(特に末広光夫さん)の得意とする分野である。このグループの名前も幾度と耳にしたことがあったが、ラジオ関西60年の番組でひさしぶりに耳にした気がする。(おそらく20年ぐらいのような気がする)
驚いたことに、この音源は約50年前にラジオ関西の電リクから録音とあり投稿者のコメントにも「アナウンサー­は奥田博之さんや松島武雄さんの名前を覚えております。」とあった。
50年前というと1962年(昭和37年)なので週5日の電話リクエスト時代。奥田博之さんが火曜日、土曜日が浜村淳さんの担当だった時代のことである。ちなみに松島武雄さんの電話リクエスト登場は昭和38年10月の月曜日 電話リクエストが週7日になったときである。いずれにしても投稿者の発言は時代考証的にも正しく、斉藤邦雄さんや、三浦ひろあきさんがまだ入社されていない頃のことである。

2012年6月19日 (火)

「北野坂・風見鶏の街」(浅尾寿美)のラジオ関西ジングル

YouTubeにJOCR ラジオ関西 ジングル 1978年と題するものがあった。
聞いてみると確かに浅尾寿美さんの声とともに懐かしい局ジングルが聞こえた。
http://www.youtube.com/watch?v=XkUZBIX5eHU&feature=watch_response_rev
また、ここには解説があり

この歌は「北野坂・風見鶏の街」と題名で番組からレコードになった曲です。

NHKの朝のドラマの影響もあり神戸の異人館や北野が注目されていた。
そんな時代背景の中で 当時の朝のワイド番組「斉藤くにおのワイドワイド関西」の「今月の歌」で、当時デイレクターだった森下悦伸氏 (元ジローズ:現ラジオ関西専務) が作詞・作曲し、番組アシスタントをしていた浅尾寿美さんを起用しレコードを出した。
1978年頃のことであった。 この曲は一時期、局のジングルとして採用され、好評を得るが、元のジングル・・チューインガムの名曲「海のみえる放送局」に戻っていった。

と、良く調べたなあと思ったり、どこかできいたことがあるなと思っていたら
…とJOCRラジオ関西ファン!のホームページに書かれているの­をそのまま転載致します。と書いてあった。
結構読まれているのだと喜んでしまいました。

ここで、以前斉藤邦雄さんからいただきました。レコードのパンフレットを紹介します。
なお、この曲は、レコード発売されたときのオーケストラ演奏バージョンと,番組で放送されたときの、アコーステック・ギターによる演奏のバージョンがあるのですが,たぶん、ギター演奏は森下さんがされたのだろうと思いますが、こちらの曲も聞かせていただきましたが
実に味わいのある演奏と歌でした。
なお、パンフレットには斉藤さんと森下さんがコメントを書かれています
Kitano_zaka

クリックすると画像は大きくなります

2012年6月18日 (月)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 (第15週 玉井 孝 さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第15週 玉井 孝 さん 2012年1月9日~1月13日

お話の要点
現在(放送当時)82歳の玉井さん。昭和28年入社すなわちアナウンサー2期生。(4年間ラジオ神戸に在職ということはその後の話に出た)
NHK徳島放送局でアルバイト(放送劇団に入っておられたようで、原稿を書いたり、実際に声を出されていたようだ)をしていたという玉井さん。
徳島放送局にやってこられた、ラジオ神戸アナウンサー1期生の大中照幸さん(第1週放送担当)の話を聞き、実に魅力的でラジオ神戸の入社試験受験を決意したという。
入社して、大中さんの言葉通り、ラジオ神戸の須磨の地はすばらしい環境であった。別荘のような建物、車は外車。どう考えても日本離れをしていた。
湊川神社の前には米軍のジープが走り、金網が張り巡らされていた時代である。神戸の港は貿易港で神戸の元町に住んでいたが銭湯には港湾労働者の方が入ってこられるため、湯船に入ると砂が積もっていた。
初日のリクエスト「モナリザ」は電話リクエスト担当時代、テーマのようにかかっていた曲。この曲を聴くと電話リクエストを思い出す。
初代の小山美智子さんは、非常に人気が高く2代目になるが、初代が偉大で良すぎたため、正直「やりたくなかった」という面があった。
NHKがやらない放送スタイルをするので、やりがいはあった。
XXさんからYYさんへというお決まりのパターンがあった。レコード室から小石忠男さんや末広光夫さんが曲に関するメモを寄せてくれてそれを紹介した。
言葉のミスは怖い。(テレビでの実例を紹介)
源平歌合戦という公開録音番組を担当した。ラジオ神戸の「歌のクイーン」という選考があった。大村昆さんの奥さんになられた方が2代目のクイーンだった。
元町に住んでいたが、ニュースを読むのに三宮の神戸新聞まで行く必要があった。これを寝すぎて忘れており編集者のご老人に代わって読んでもらったが、減俸処分になった。これがトラウマになった。夢にまで見るようになった。
その後遅れたことは無いが、約束したものは10分前に行くというのは、このラジオ神戸時代の教訓。
ラジオ神戸在職は4年間。楽しい思い出が多い。アットホームな中でも個性に特徴がある放送局だった。
ラジオ神戸のアナウンサーには得意ジャンルがあり、それぞれが違う人たちであった。
玉井さんは、現在も神戸に住んでおられる。大阪の放送局(朝日放送)に行っても神戸に住んでいる。神戸が大好き。バラエテイの富んだ街。阪神淡路大震災のときにも東灘にいた。神戸の女性たちの逞しさには驚いた。自分の周りにはそういう人が多い。
なでしこジャパンの中心が神戸というのも理解できるところ。神戸の女性には元気がある。そのような神戸の女性にインタビューをして番組で取り上げて欲しい
最近の放送を聞いていると、早口が目立つ。早口はだめ。簡潔に話すことが大事。お笑いの人が楽屋話をして面白くないのに笑うような風潮は良くない。
淀川長冶さん、妹尾河童さん、新井満(電通神戸出身)さんなど神戸には特徴のある人が多い。これらの人々を記念碑的なものでなく生かせることを考えるべき。
(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2012年1月9日(月)モナ・リザ/ナット・キング・コール
2012年1月10日(火)ブルー・キャナーリ/ダイナ・ショア
2012年1月11日(水)キッス・オブ・ファイア/ルイ・アームストロング
2012年1月12日(木)ニューヨーク・ニューヨーク/フランク・シナトラ
2012年1月13日(金)オーヴァー・ザ・レインボウ/ジュディ・ガーランド

解説と感想

玉井孝さんは朝日放送出身でTBSに出向し全国放送を担当したアナウンサーのように思われており、実際にWikipediaでも少し前(この放送が行われた頃)まではラジオ神戸の記述はありませんでしたが、私はラジオ関西50年史の本で玉井さんがラジオ関西・ラジオ神戸出身ということは存じていました。

過去の周年記念特番にも登場されたことがあるようです。

現在では、Wikipediaにはラジオ神戸に「短期間在籍」と書いておられますが、実際には4年間在籍をしておられ、4年が短期間かどうかはむずかしいところです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E4%BA%95%E5%AD%9D
いずれにしても、全国区のテレビ放送のワイド番組で人気アナウンサーとなったのは玉井孝さんが最初であり、ほかには奥田博之さん(よみうりTVの2時のワイドショー)もおられますので、ラジオ関西の電話リクエスト人気担当者は全国放送でも通じるレベルにあったということなのでしょう。
他には、FM東京でJFNのネット番組を持たれた加藤逸子さんなどの例があります。

玉井さんについてはこのような記事もあります

http://f-age.jugem.jp/?eid=2451

本ブログでも、松島武雄さんのときに話題にしましたね。

小山美智子さんと同様初期の電話リクエストの担当者です。放送では言っておられませんでしたが、在職はそれほど長くはなく小山さんは1年程度です。小山さんは朝日放送アナ(後にプロデューサ)になられて活躍されておられますが、玉井さんは大阪テレビから朝日放送のようでこれも小山美智子さんと玉井孝さんは同じような道というところに因縁を感じます。

朝日放送は関西では2局目の民間放送TVです。(1956年12月開局)当初近畿地方には、民間放送TVは「大阪テレビ」1局のみで、(もちろん現在のテレビ大阪とは無縁です)これは朝日と毎日の合併したような放送局といわれています。大阪テレビはその後朝日放送に継承されます(ただし大阪TVは廃止となりそれぞれの出向者は元に戻るが、毎日・朝日が新たに開局となったため、それぞれの放送局とも人員が必要となった)ので朝日放送テレビの開局時には、経験者が重宝され、ラジオ神戸の人材の移動があったのでしょう。(同様に読売テレビ開局時にも数名ラジオ神戸からの人的移動も確認されています。また、関西テレビは神戸放送が設立母体なので多くの移籍がありました。このような話題は別途)
また、現在アナウンサー養成のアクト・アカデミー芦屋の校長をされており、同じく2期生の田淵あきらさん(第2週放送に出演)か経営者であることからも縁があるようですね。ラジオ神戸つながりともいえるのでしょうね。80歳台とは思えない現役アナウンサーのようなお声で、有名アナウンサーの貫禄を感じました。

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月17日 (日)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 (第14週 小山乃里子さん) 

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第14週 小山乃里子 さん 2012年1月2日~1月6日
お話の要点と解説
昭和40年1月11日の入社在職は約6年半1月入社ということで、試験は前年10月に実施。大学卒業後、松下電器の広報でアルバイトをしていたという小山さん。ラジオ関西の募集を知り大学の放送部の後輩と受験するようになったのは、前年広島の放送局で最終まで残っていたこともあり「最後の砦」としての受験となったみたいである。
当時入社試験は、他の方の話にあったように1000名を超える受験者数だったようである。当時枚方市に住んでいた小山さん。遠いなあとおもいながらも試験を受けた。
この時期に入社試験をしているのは、たぶん退職者の関係だと想像している。
 ラジオ関西の入社試験の音声試験は写真を見て話を話をするスタイル。前年広島の放送局の最終面接まで残っていた小山さんであったが、若い高卒に負けたのは、都会の大卒では結婚などですぐ辞めるからと考えられたから。ラジオ関西の応募では、アルバイト先の松下電器の広報部長の推薦もあったようでありがたかった。
生まれは小樽。小学校のとき枚方に親の仕事の関係で引っ越した、そこで男子からひどい「いじめ」にあった。しかし女子を仲間にして乗り切った。
ラジオ関西に行きたいと思ったのは「電話リクエスト」がありこれを担当したかったから。大橋巨泉さんなど東京から有名人が来ていた。
入社1年目に、東京からきていただいた音楽評論家の木崎義二さんと番組をした。その後は白藤丈二さんとご一緒した。
この頃 高校生だった桂文珍さんが篠山からリクエストしていたがかけてもらえず、後年「かけてもらえなかった」と言われたことがある。
「僕の鉛筆とママの歌」という番組を担当し、足かけ8年ぐらい続いた。子供の扱いに苦労した。このときアナウンサーを捨てて対応した。
新年の神戸港の汽笛を全国放送するため当時加入していたNRNで大晦日の夜神戸港から10分間中継に2時間前から待機していた。

入社1年目の昭和41年~42年に「ミッドナイトフォーク」という番組を担当し「ヤングフータナニー」というサブタイトル曜日を担当
毎週2組のアマチュアを呼び、話を聞き歌を演奏してもらうというスタイル。「赤い鳥」「高石ともや」や「ジローズ」なども出た番組。
1年ほど続けた。ベトナム反戦色が強かったため終了したのではないか。王子公園での公開番組で森山良子さんが高校生の頃出演したがその司会をした。
京都で活躍していたフォークルも大学卒業間近となり解散を決め、解散記念に作成したレコードを、この番組に持ち込んだという。
その曲こそが「帰ってきたヨッパライ」フォークルの出世作である。シングル版にもラジオ関西の放送で紹介されたと記載されていた。
関西フォークが大ヒットしたのはこの曲が最初であるが、そのメカニズムは次の通りであった。

その後、ラジオ関西の電話リクエストでも放送され、その電話リクエストでDJをされていたのが木崎義二さん。木崎さんは昭和42年8月から電話リクエストを担当されており、この電話リクエストを木崎さんと担当されていたのが小山さんである
その木崎さんの友人がニッポン放送の亀淵昭信さん。オールナイトニッポンのDJもされ、後年ニッポン放送の社長となった人だ。

2012年1月3日放送では、木崎義二さん(東京在住で音楽評論家兼洋楽雑誌「TEENBEET」編集長)の誘いを受けて、小山乃里子さんが東京に遊びに行き、そこで、亀淵さんと出会う話が紹介されていたが、その背景にはこのような事情がある。
なぜ、このことを私が気がついたのかというと、ラジオ関西の洋楽CD第2集の「ご挨拶」(p2-3)に紹介されている。

(参考)2010年7月16日 (金) ラジオ関西ファン ブログ
ラジオ関西の洋楽100曲CD第2弾を購入しました
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-7a99.html

もちろんこの中で小山さんの名前は無いがミッドナイトフォークと、電話リクエストで木崎さんとのコンビの小山さんが情報を伝えたということが想像できる。
なお、帰ってきたヨッパライがラジオ関西で紹介されたのが昭和42年9月下旬で10月13日に亀淵氏に音源を渡し、10月14日の「高崎一郎のオールナイトニッポン」で放送され、全国的にブレークしたようです。
ミッドナイトフォーク(深夜12時から1時間の録音帯番組)という番組は、ラジオ関西では1年で消えてしまいます。その理由は小山さんは「ベトナム反戦」のイメージが強かったことが原因と考えられているようです。
スポンサーの意向といっても、このミッドナイトフォークにどれだけのスポンサーがついていたかはわかりませんが、若者を対象としていたのは小山さんの曜日。もっとも当時は小山さんも若く、大学生たちとそれほど年齢はかわらなかったようです。番組でも言われていましたが高石ともやさんと同年齢のようです。

ビバタカラジェンヌという長寿番組がある。ラジオ関西で30年以上続く番組。これを当初から担当したのが小山さん。タカラヅカは見たが「はまり込む」ことはなかった。他にやりたいことがあったから。
ラジオ関西の正月番組で「ツレとノコでおめでとう」という鳳蘭さんと特別番組を3年ぐらいやったがそれが縁で宝塚の舞台を見ることになった。
現在では、今のトップスターも小さいときから知っている。男性ファンも増えてきている。
小山さんは、歌謡曲・演歌からポピュラーまでさまざまな番組を担当した。ブレンダ・リーにインタビューを命じられた。英文科出身やろといわれてやった。
三橋美智也さんのインタビューなど、須磨には大物歌手が次々と来ていた。
ラジオは元気が無い。残念。若い世代が少ない。若い人にも聞いて欲しい。聞きやすい放送をしてほしい。
元気のある放送、聴きやすい放送を心がけている。歌謡曲が少なくなっている。歌詞がわからない曲が多い。昔と比べそちらに逃げる。英語と混ぜるので余計おかしい。毛嫌いはしていないが良い音楽が少なくなった。
ラジオを聴いて欲しいというキャンペーンをしたい。ラジオの可能性。なくなってはいけないメデイア。
ラジオを友達に勧めてほしい。
ビートルズの来日時、行けなかったのが残念。最後のリクエストはビートルズのミシェル。
(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2012年1月2日(月)ラヴ・ミー・テンダー/エルヴィス・プレスリー
2012年1月3日(火)おふくろさん/森進一
2012年1月4日(水)帰って来たヨッパライ/フォーク・クルセダース
2012年1月5日(木)おゝタカラヅカ/宝塚歌劇団2012年1月6日(金)ミシェル/ビートルズ

感想など

小山乃里子さんといえば、放送業界・特に関西地方では知らない人がいないぐらい有名な方で、女性フリーアナの大御所的存在。
今まで出演された歴代アナウンサーの方は、一部の例外(牛尾淳さん、木元英治さんなど)を除き、かなり高齢の方が多く、現役引退後ひさしぶりのマイクという人が多く、それでも元アナウンサーだけあってしかりされているなという感がありました。
しかし、小山乃里子さんの場合は、年齢を感じさせないといえば言いすぎかもしれませんが独特の小山節というか、話のテンポにも独特のスピードの流れがありました。
北海道小樽出身で小学生の頃大阪に来られ、ラジオ関西の電話リクエストにも憧れ、電話リクエストも担当されたという小山さん。
新年のトップバッターにふさわしい内容の濃い放送であったと思います。まさか小山乃里子さんが「帰ってきたヨッパライ」に深く関わったラジオ関西の当事者だったとは知りませんでした。

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月16日 (土)

ラジオ関西番宣CM(1990)サンテレビ

ラジオ関西番宣CM(1990)サンテレビ

神戸アフタヌーンクラブ
青春ラジメニア
露の団六ニュース大通り
局PR 大切な音伝えたい(三上公也アナ)
http://www.youtube.com/watch?v=w5pa_RVNrMU

これも懐かしい

歌声は風にのって(ラジオ関西) 昭和36年

歌声は風にのって(ラジオ関西) 昭和36年と題したものが
YOUTUBEにあった。ピチカートポルカだが、画像に注意

http://www.youtube.com/watch?v=6wqRi7nip74

2012年6月15日 (金)

1986年神戸まつりでのラジ関アナウンサー総出演?のイベント写真

ラジオ関西OBアナウンサーの斉藤邦雄様から、貴重な写真を提供いただきました。
1986年の神戸まつりはフラワーロードの会場以外にもラジオ関西のスペースを確保し、そこで、当時のラジオ関西アナウンサーほぼ総出演のイベントを企画されたようです。題して「アナウンサーと遊ぼう」。

いろいろなことをしてお客さんに遊んでいただいたようですが、「アナウンサーと麻雀しよう」という企画もあったようです。

今だったら、何も賭けてはいないとは言え、路上で不特定多数の人と麻雀をするなどという行為には許可が出ないのではと思いました
写真は「ふれあうラジオ大通り」のステージ。

1986jocr1

(クリックすると大きくなります)

右から、岩崎和夫、森山かずみ、三上公也、牛尾淳、吉田秀子、池田幸子、橋本幸子、矢野泰三アナウンサーということです。
1986年ですからさすがに若いですね。左2人は誰なのでしょうか タスキには番組名「ときめいて昼下がり」「テレテレサタデーリクエスト」とありますから、左端の女性は、テレテレサタデーリクエストの岩崎和夫さんの相手というと若き日の増井孝子さんなのでしょうか。しかしそれにしては少しおかしい気もしますので・・

1986jocr2

こちらは 斉藤邦雄アナウンサー。当時の担当番組「雑貨屋サイトー商店」のタスキです。

1986jocr4

やはり斉藤邦雄さんはマージャンがお好きなようですね。
なお、斉藤さんの後ろで笑っておられるのが三上公也さん。

1986jocr3

斉藤邦雄さん(左)と、三上公也さん(右)

中央の女性はどなただったのでしょうね。

2012年6月14日 (木)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第13週 小山美智子さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第13週 小山美智子さん 2011年12月26日~12月30日
お話の要点
昭和27年入社すなわち開局時入社のアナウンサー1期生
小山美智子さんは初期の電話リクエストの担当者です。
アメリカ帰りの高橋太一郎さんが電話リクエストを早くから提案していたが会社側は大反対をした。

進駐軍の見学を受けた思い出。ジャズが目的であった。

ラジオ神戸の募集を引越しの最中に知り、あわてて引越しのダンボールの上で履歴書を書いた。父にも内緒で受験した。
そのときは既に結婚して子供がいたが、面接のとき直接的に聞かれなかったので黙っていた。嘘はついていないが・・。
当時は神港新聞や神戸新聞で研修をした。自分は半年間神戸新聞に通った。NHKの大阪放送局にも勉強に行った。
末広光夫さんと一緒に番組をもった。海へ泳ぎに行くこともあった。のんびりとした雰囲気。犬もいた。高橋太一郎さんの犬。
電話リクエストの実施は反対があった。リクエストが来なかったらどうするとか。
放送前にも電話がかかっていた。夜中4時間の放送であった。
反響は大きかった。大晦日にも特別番組をして定例番組化した。
レコード室は楽しかった。藤田光彦さんや、末広光夫さん、クラシックでも東京でも有名になった小石忠男さん
音楽に恵まれていた。ジャズクラシック乗合船は面白かった。
内田えいいちというNHK出身のアナウンサーの指導者がいた。旅が好きな人。
ラジオは耳である。言葉を大事にする。目をつぶって聞くとわかることがある。世の中の見方が変わる。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2011年12月26日(月)チェンジング・パートナー/パティ・ペイジ

2011年12月27日(火)モナ・リザ/ナット・キング・コール

2011年12月28日(水)カモン・ア・マイ・ハウス/ローズマリー・クルーニー

2011年12月29日(木)オール・ザ・ウェイ/フランク・シナトラ

2011年12月30日(金)ホエン・ユア・スマイリング/ルイ・アームストロング

解説と感想

放送では言っておられませんでしたが、在職はそれほど長くはなく、後年朝日放送のプロデューサになられておられます

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月13日 (水)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第12週 末廣光夫 さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第12週  末廣光夫 さん 2011年12月19日~12月24日
お話の要点
昭和27年5月?入社の末広光夫さん。
開局当時のラジオ神戸でジャズアメリカーナという番組を担当しておられた油井正一さんに誘われ音楽担当者として入社。
電話リクエストはクリスマスイブの夜、急遽電話リクエスト実行を決意し、放送部長に了解をとって、会社に残る人を総動員して実施した。
CRジュークボックスが電話リクエスト 当時は1日一回しか同じ音楽を放送することができなかった。
入社当時サンデーメロデイという番組を担当、電話リクエストを提案したがだめだった。
サンデーメロデイも時間が長くなり小山美智子アナウンサーとともに一緒に番組をすることになった。

ジャズクラシック乗合船という番組で、クラシックの藤田光彦さんと対決する番組を企画した。電話でジャズ・クラシックの双方への応援の電話がかかり、それを放送に乗せた。
そのスタイルが後の電話リクエストの手法につながっていく。クラシックを聞くと頭が痛くなるという末広さん。昔からジャズが好き。おじの影響で小学生のときから聞いていた。
ジャズが神戸に入るのはアメリカ航路がフィリッピン経由で神戸に入るのも影響している。昭和10年ごろ神戸にハワイアンバンドができた。神戸商大のハワイアンバンドがあった。
タイヘイレコードが神戸にあった。戦後マーキュリーレコードになった。ラジオ神戸開局前後の時代は朝鮮戦争、神戸市内でも米軍キャンプが2つあった。そのうちウエストキャンプは黒人兵が多かった。
新開地でルイアームストロングの公演があり右近まさおと行った。この様子が油井正一がジャズアメリカーナというラジオ神戸の番組で話した。それが東京にも伝わった。
ラジオ神戸は電熱放送局といわれた。500Wとか1kWという小出力の放送局のことである。それでも東京(のジャズ評論家・放送局)と張り合った。進駐軍専用のレコードであるVデイスクを入手することにより情報を得た。
当時のアメリカのレコード会社はストが多く発売が少なかった。
今のアメリカのジャズはだめ、映画音楽も同様。今はヨーロッパが良い。
1ヶ月仕事を休みアメリカに行った。アメリカで録音もした。行かなければわからないことが多い。
神戸ジャズストリートはポートピアジャズフェステイバルが縁で30年になる。ヨーロッパからの参加も多い。
神戸ジャズストリートも60%は女性ファン。
末広さんのこだわりは、東京に負けないもの。それが神戸に見習えというようになった。
くまだちほさんという古い歌を歌う20歳代中ごろのジャズシンガーを応援している。替え歌も教えている
略号は使わない。文化は嫌い。略号だから文明開化。明治初期のそれを忘れないように。
フォークソングブームが全国的に広がった時期、神戸のフォークソングは英語であった。
最終日の曲グリーンバック・ダラー/TUTは神戸大学のグループでいまも活躍している。末広さんとは40年のつきあい。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2011年12月19日(月)ホワイト・クリスマス/ビング・クロスビー
2011年12月20日(火)乾杯のうた/二村定一
2011年12月21日(水)旅愁/レイモンド・コンデ
2011年12月22日(木)A列車で行こう/美空ひばり
2011年12月23日(金)グリーンバック・ダラー/TUT

解説と感想

アナウンサーというよりプロデューサ、ワンマンDJというイメージ。
末広さんを、この時期に登場させたのも、クリスマスと重なる時期であるからということは想像できた。
2011年は24日が土曜日で25日が日曜日で、ラジオ関西60年の放送が無いため、今週の放送になったのだと思う。
というのは、昭和27年のクリスマスイブの深夜に、わが国最初の電話リクエストが放送されるが、その番組担当者が末広さんだったからだ。
現在はジャズ評論家として、神戸ジャズストリートの運営にも携わる
この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月12日 (火)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 (第11週 橋本幸子・池田幸子さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第11週 橋本幸子・池田幸子さん 2011年12月12日~12月16日

お話の要点

昭和44年8月入社の橋本幸子さん昭和49(1974)年(?私の推測・逆算によるとですが)入社の池田幸子さん。
12月13日放送では、池田幸子アナウンサーが新人時代、当時アナウンス部長だった奥田博之さんに「歌声は風にのって」の番組で、放送後注意を受けるというエピソードが紹介されていました。「原稿を読んでいる」ように間違われた池田さん。

実は原稿ではなくアドリブ。その機転のよさが結果的に認められたのか、新番組「奥田博之登場ごきげんジョッキー」のアシスタントに社員アナとして唯一採用されます。

この頃から、社員アナ+外部契約アナウンサーのような組み合わせとなるのですが、それまでは「ジャストナウ関西」の時期では社員アナ男女2人が普通で、その他の番組でも 社員アナウンサー+落語家・コメデイアン・歌手などの「タレント」というパターンばかりでしたが、高度成長期後半になると、女子アナにかわり契約アナウンサー・フリーアナという組み合わせがラジオ関西では増えてきます。

この時期でラジオ関西の放送を語るうえで欠かせないのが奥田博之さんや斉藤邦雄さん。ご本人の出演はなくても、他の方が話題にされるという感じがします。奥田博之さんの話題は木元英治アナウンサーがされていたのですが、今回のお二人は揃って「奥田部長」という表現だったのが印象的でした。なお、池田幸子さんは木元英治さんの大学の後輩にあたるようです

以下にその他の話題の要点を示します。

歌声は風にのってはナマ番組・ゲストも多かった。女性のアナウンサーはこの番組で育てられた。リスナーと繋がりが強い番組。
橋本幸子さんの思い出の番組はミュージックワゴンという番組。田口昭南アナウンサーとペア。当時は男女アナのペアも多かった。
女性アナウンサーがニュースを読みことは無かったがそれは橋本幸子さんの時代までで、池田幸子さんのときはそうではなかった。
池田幸子さんの時代では、ちょうど音楽番組からワイド・トーク番組への過渡期だった。
池田幸子さんの思い出の番組は奥田博之さんのごきげんジョッキー、橘家円三さんの番組、夜に放送されていた斉藤邦雄さんの懐メロの番組など。
斉藤邦雄さんは懐メロが得意な分野であった。
池田さんの思い出として、震災後、勝新太郎さんにインタビューをしたことがあり、映画俳優のオーラを感じた。
橋本幸子さんの思い出として、美川憲一さんを歌声は風に乗ってに何回がゲストに来てもらったが、そのとき番組で歌を歌わされたことがある。
幸子・幸子という番組は3-4年、林アナが新人時代レポートをしたことがある。
春節祭で南京町広場・現在のあずまやあたりで公開番組のステージをしたこともある。、
阪神淡路大震災のときヒッチハイクで会社にでていた(池田さん)、個人の趣味に走りすぎる傾向のためか若い人の表現能力が落ちている。
ラジオよりインターネットの時代では会話能力が落ちている。ラジオは音の世界。歳相応の話題のできるアナウンサーがいいのではないか。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2011年12月12日(月)ピッチカート・ポルカ/パーシー・フェイス
2011年12月13日(火)やっこさん/美空ひばり
2011年12月14日(水)サニー/勝新太郎
2011年12月15日(木)港町十三番地/美空ひばり
2011年12月16日(金)追憶/バーブラ・ストライザンド

解説と感想
実に変則的な2人の女性アナウンサーの登場。漫才のような会話が多く、私の能力ではうまくまとめることができていないというのが正直なところでもある。
このお二人とは、昭和44年8月入社の橋本幸子さんと、入社年は初回番組中に直接的に言われなかったが8月入社で昭和49(1974)年(?私の推測・逆算によるとですが)入社の池田幸子さん。
池田幸子さんは、「奥田博之登場ごきげんジョッキー」(昭和50年)の初代のアシスタントで当時、奥田さんが新人と紹介していた録音がありますので昭和49年と推定しました。
林アナウンサーは、番組中、池田幸子アナウンサーのほうが、ひさしぶりではないかと言われていましたが、確かに池田さんは早期退職で震災後3年後ぐらいに相当早く退職されているようです(新社屋で3年ぐらい・在職期間26年といわれていましたので2000年ぐらいには退職されていたということになります)
一方、橋本さんは6年前定年退職といわれていましたので2005年の退職だと思います。したがってラジオ関西の社員としては池田幸子さんの方が5~6年前には辞められていることは事実です。

しかし、橋本さんは、アナウンサーから結構前に報道部門へ異動されており、橋本さんのお声が聞こえなくなったのは震災前だったと思います。(ただし私自身の個人的な記憶ですが、平成15年ごろのラジオまつりのラジオ関西ブースでは橋本さんを見た記憶があります。顔は知らなかったのですが、話しておられる声でわかりましたので橋本さんですかとお尋ねしたことがあり、ご本人であることを確認した記憶もあります。このようなことから社員として残られたことはわかっておりました。)このようなことからお二人を電波で声を聞いたのは池田さんより橋本さんが懐かしい感じでした。(私の感覚では)

また橋本さんがアナウンサーから報道に代わられ頑張っておられる様子を矢野泰三アナウンサーがエールを送られる番組を作られ、放送されていたような記憶もあります。(もしかすると何かの放送コンテストだったのかも知れません。感動的な番組でした)

調べてみると1990年ごろには、番組表から橋本幸子アナウンサーの名前が見られなくなっています。1989年まででは、うたかぜのところに名前があるのですが、1990年以後は丸子由美さんなどフリーアナウンサーがニュース・天気予報を担当しながら、うたかぜを担当するということを試行されています。若手の女性アナが半分ぐらい残っていますが、現在では、ワイド番組のアシスタントの女性がうたかぜ(歌声は風にのって)をされています。

時報や「うたかぜ」が女性アナの入門だったのが、新人アナが少なくなり契約アナや中堅アナの仕事になり、女性アナもプロデューサや報道部・事業部などへ異動という方向になったのが感じます

実は、このお二人、おふたりの名前を冠した同じ番組を担当されていとことがあります。
「幸子・幸子で歌いちもんめ」という番組で、同時出演ではなかったと思いますが、まるでお二人は漫才師のコンビのようなノリというか仲のよさでしたが、このような背景もあります。

この番組は、昭和の末期ですから昭和62年ごろ、月曜日~木曜日の正午過ぎから午後2時ぐらいまでの帯番組で、月火が池田幸子さん、水木が橋本幸子さんでした。
さすがにこの時期になりますと、私自身の記憶にはリアルタイムまっさかりの時代ですが、この番組は仕事の関係もあり休みのときぐらいしか聞けなかった番組です。
その他、女性アナウンサーの番組として、共通するのは「歌声は風にのって」、今回のリクエストは、テーマ曲のピチカートポルカ(パーシーフェース)。先週の大西文子さんもリクエストされていました。重複はいいみたいですね。そういえば加藤逸子さんのときもBGMに利用されていましたので登場は3回目です。
いかにこの曲のインパクトが強いかがわかりますね。
それと変則的と思ったのは2人のアナウンサーの登場ははじめてだったのと、出演は、女性・男性の交互というスタイルが続いていたので今回は男性だと思い込んでおりました。
そして「今週はこのおふた方です」と言われたとき男性2人かと思ってしまったのですが女性で驚きました。
なお、橋本幸子さんは低い声のアナウンサーで、70年代のジングル「海のみえる放送局」の中で「ラジオは(というアナウンスに続き音楽スタートし)558KHzラジオ関西です」というアナウンスを担当されていました。
また、池田幸子さんは、入社当初の写真が「ランラジオ」に掲載されておりました。「今こどもたちに」という兵庫県教育委員会提供の番組をされていたこともあり、初任者の研修で社町(現加東市)の教育研修所でインタビューに来られていたとき一度お会いしたことがあります。

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月11日 (月)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第10週 大西文子さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第10週 大西文子さん 2011年12月5日~12月9日
お話の要点
昭和35年(1960)3月入社退職は1964年12月ということですが、社員の4年間に加えその後はアルバイトとして勤務されていた
通産6年の勤務。須磨の木造社屋の時代。家庭的な社風。大学時代の学生放送出身(MBS,CR、KBSの各局で活躍)
入社後の研修はなかった。同期に五明由美子さんがおられたが、こちらは関学の放送部出身。
初日は歌声は風にのっての初代テーマソングであったピチカートポルカをリクエスト。

青木さん(後年社長になった青木啓氏)と「めくり」をするなど家庭的な雰囲気。
アナプールだけでなく、技術やプロデューサの人たちも暖かい人が多かった。
電話リクエストでは前田隆さんや松島武雄さん、大橋巨泉さんと一緒に担当した。
大橋巨泉さんは飛行機で東京から来られたので ぎりぎりに駆けつけることが多かった
大橋巨泉さんは番組終了後、神戸に宿泊するのではなく東京に引き返すスケジュールであった。
その後、インドネシアの国営放送で日本語放送を担当することになります。
インドネシアから日本に帰った大西さんは日本語の変貌に驚くばかりか、マナーの悪化にも驚いた。
ラジオ関西の放送は変わっていない。CMは仕方ないと思っているが。非常に良かったと思っている。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2011年12月05日(月)ピッチカート・ポルカ/パーシィー・フェイス

2011年12月06日(火)月影のキューバ/森山加代子

2011年12月07日(水)慕情/デヴィッド・ローズ

2011年12月08日(木)恋人よ/五輪真弓

2011年12月09日(金)上を向いて歩こう/坂本九

解説と感想
さすがにこの時期になりますと、私自身の記憶にはリアルタイム的には無い時代ですが、大西さんのことは過去の資料で拝見したことがあります。
大西さんの話題は4日目~5日目はラジオ関西退職後のインドネシアでの話題が大半でラジオ関西60年から少し外れた話題も多かったが、ラジオ関西で活躍されたアナウンサーが、インドネシアの国営放送で日本語担当として活躍されたことはすごいことなのだなあと思いました。

この昭和35年という年は、1月1日に神戸放送株式会社から株式会社ラジオ関西に社名変更し出力10kWに増力した年です。
大西さんが在職した時期である昭和35-39年というと関西テレビ開局により、いったんはテレビ放送開局をあきらめたように思われたラジオ関西でしたが、1964年の社報JOCR第8号に掲載された当時の組織表によるとFM放送やTV放送を視野に入れた「FM・TV準備委員会」(委員長 関口寿一氏)が設けられたり、「ラジオ関西音配」という子会社の設立が行われたという時期でした。
この子会社は朝日BGMと契約し、神戸以西の兵庫県の企業・学校・病院などのBGM販売だが、将来のFM開局を見据えた動きだったという。

当時神戸新聞の社長で、ラジオ関西社長だった田中社長は、もともと朝日新聞出身であったことは以前記事にした通りで、ラジオ関西を設立した企業のひとつである「神港新聞」も、神戸新聞と朝日新聞の関係がある企業だったことにも注意しておきたい。

当時の社報JOCRによると、大西文子さんは 電話クエストの金曜担当ということである。
この時代のラジオ関西は意外と思われるかも知れませんが本当に音楽放送局として親しまれ、電話リクエストなどの看板番組を有する放送局として知られ、営業的にも強く、1964年は「電話リクエスト」が1週間とも大阪・神戸でも最高の聴取率を上げた年だったようです。いわゆる電話リクエスト黄金期です。
また、ラジオ関西のナイター中継の解説陣には後藤次男氏が起用され、ラジオ関西制作のナイター中継は、対象は、東海・中国・四国・九州の基幹制作局5社とネットを組んでいたようです。
社報JOCR第7号によると当時はJNN系列とFOLラインがラジオ関西のライバルだったようです。JNNとはTV局のネットですが(ラジオはJRN)、この1964年当時JRNというのは出来ておらず、テレビのJNN系列が成功したため、これをラジオの系列に応用しようとしたものだと考えられます。ラジオのネットがTVに移行したわけでなく、TVの成功により、ラジオのネット化が進められたということのようです。

FOLラインとは、参加局のコールサインからとったもので(福岡RKBのJOFR、大阪MBSのJOOR、東京ニッポン放送のJOLF)。すなわち、この時代はNRNもできていない時代であった。

今では、ラジオ関西はNRNを脱退した独立局という感じであるが、NRNができるまでの時代では、JNNやFOLに対抗した時代があるということだ、したがってラジオ関東(RFラジオ日本)のRFラジオネット加盟の背景には、ラジオ関西のこういった歴史もあることは見逃せない。

事実ラジオ関西はラジオ関東と野球中継のネットを1960年代当初組んでいたが、NRN開設直前は、ラジオ関東はKBS近畿放送をパートナーにしていた。

つまり、NRNが出来たことにより、ラジオ関西が、得意としていた野球中継の他局への番組販売が見直されたということだ。NRNができるまでは「プロ野球」と、シーズンオフの「電話リクエスト」としていたが、NRN設立以後は、一年中「電話リクエスト」に移行してきたのである。

ラジオ関西は電話リクエストが強すぎたため、音楽局のイメージだが、日本で最初のプロ野球中継をしたのもJOCRであることはあまり知られていない。
(その伝統と技は結局サンテレビ開局により、サンテレビのプロ野球中継に移行したようなものである。このことは、「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」での松島武雄アナウンサーの証言でも明らかになっています。)

なお、大西さんの話にあった「めくり」というのはアナウンサーが大部屋でする一種の遊びでお茶代などを負けたものが負担するというゲームのことらしいのです。

「めくり」のことは、多くのアナウンサーが話題にされています。

くわしくはまた今後

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月10日 (日)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 ( 第9週 木元英治さん)注:画像追加

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第9週 木元英治さん 2011年11月28日~12月2日

お話の要点
昭和46年(1971年)10月入社ラジオ関西在職は10年間。10月入社というのは途中入社、ある東京の放送局への入社が決まっていた木元さん。何らかの理由で東京の局へ入社を逃したとき、縁がありラジオ関西の入社試験を受けた
広島出身で関東の大学で関西には縁がなかったため、入社試験のニュース読みで関西の地名がわからなかったという。
今回の放送で木元さんがラジオ関西のアナウンサーで鏡と思ったのが奥田博之アナウンサー。奥田さんのようなしゃべりがでできればという思いの話もあった。
当時のラジオ関西はアナウンス部と制作部が別 めくりの思い出:当時の安い給料で厳しかったがそこでの会話が財産となった。
当初音楽番組としてはエクセレントミュージックタイムという番組でロックを担当した。
当時はムード音楽というジャンルがあった。今では死語。レコード業界も売りたいものだけしかかけさせない。
その後ソウルミュージックに移った。1ヶ月会社を休んでアメリカに行った。
わいわいヤングという公開録音は当初三宮センター街で1年ほどしてから須磨のCRホールに移った。
アリス・ムッシュ・バンバンなどの関西系のグループ 中山ラビ、ユーミン(荒井由美)のステージで踊ったこともあった。
幸せな時代を過ごしたと思う。音楽は買って欲しい。ダウンロードの時代だが、音楽を消耗品にしないで欲しい。
LPを個人で2万枚所有している。ラジオ関西は役立つラジオであって欲しい。
最初はアナウンサーとしてニュースを読んでいたがDJをやりたかった。当時は分業の時代アナウンサーの仕事は決められていた。
夕方のワイド番組「木元英治の夕空にヨイショ」ややることになった。現在社長になった三枝さんに言われ消防局でレスキュー隊体験をするなどいろいろなことをやった。
当時奥田博之さんの昼の番組がパンフレットの2/3、自分の番組が小さく扱われるような状況だった。
木曜日のリクエスト曲「夕焼け小焼け」(薗田憲一とデキシー・キングス)は番組のテーマソング。
ラジオを担当するものがラジオを悲観してはいけない。ラジオを遊びに使うべき
過去に「留守番電話リクエスト」をチャレンジした。ポップアイランドという深夜放送を他局に負けないものを作った
ポップアイランドという島に住民登録をするなど、成功したように見えたが番組は打ち切りになった。こういう姿勢がよくない
ある程度我慢し続けなければならないと思う。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2011年11月28日(月)ブラック・ナイト/ディープ・パープル
2011年11月29日(火)マンズ・マンズ・ワールド/ジェイムス・ブラウン
2011年11月30日(水)飛行機雲/荒井由実
2011年12月01日(木)夕焼け小焼け/薗田憲一とデキシー・キングス
2011年12月02日(金)エレクトリック・ラヴ・ストーリー/近田春夫

解説と感想

木元さんは、主に洋楽番組を担当アナウンサーというよりDJといったほうがいいような方だった。その後FM広島開局により、故郷広島に移られたという伝説的アナウンサー。
入社当時は、ラジオ関西にアナウンス部があり制作部とは別だったという。
今、編成をするなら自分はどのような放送をしたいのかという問いかけには「若者向け」と即答する一方「60台未満お断りのような番組もしたい」という木元さんだった。昔とほとんど変わらない姿勢に驚きました。
現役時代とかわらない口調で我が家に戻ったような木元さん。最終回の奥田さんが遠慮がちに答えるのと対照的だったような気がする。

追記

なお、木元さんが、この番組で話しておられた当時の番組紹介のパンフレットは下記のものと思われる。たしかに下1/3が木元さんで、上2/3が奥田さんの番組紹介である。

Panf

画像追加 6/10 19:30

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月 9日 (土)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 ( 第8週 小柳絹代さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第8週 小柳絹代さん 2011年11月21日~11月25日

お話の要点
昭和42(1967)-49年の在籍。
ラジオ関西在職は7年間。高度成長期らしく、給料も入社時の初任給が7年間で3倍となったという時期ということ。
小柳さんは大学卒業後、新劇をめざし養成所に入った、しかし身長が低く子役しか貰えないと思い?転向し、試験を受けた。
朗読などの番組を希望していたが実際。
当時のラジオ関西アナウンサー入社試験は1000名ぐらいの受験で2名の合格者(女性)という時代。ラジオにも人気があった。
深夜のレッツゴー歌謡曲を担当。その他インタビュー番組が多く、スキーの三浦雄一郎さんを訪ねてハチ北にも行った、
歌手でも 音楽放送局なので多くの人が来られた渚ゆうこ、吉永小百合、森進一、将棋の内藤 國雄さんもインタビュー
洋楽の電話リクエストは担当せず、歌謡曲関係を担当した。
当時 三宮のさんちかサテライトスタジオで栗原れいじさんとのトーク番組音楽では佐々木勉さんと一緒に仕事をした。
サテスタ 正午、3時、午後6時に番組があった。さんちかが新しい時代。ラジオ関西の須磨のビルには美容室があり、そこで整えてもらいサテスタに行った。
シャルルアズナブールのイザベールもラジオ関西がきっかけとなった歌。てんとう虫のサンバもラジオ関西からヒットした。
それほど当時のラジオ関西は影響があった。社風は「仲がいい」「やさしい」という感じ。「アットホーム」競争社会なのに・・
ラジオをつけてゆったりできる放送がいいのでは。
(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2011年11月21日(月)アラウンド・ザ・ワールド/ビクター・ヤング楽団

2011年11月22日(火)モナムール・モナミ/マリー・ラフォレ

2011年11月23日(水)あなただけを/佐々木勉

2011年11月24日(木)雪が降る/アダモ

2011年11月25日(金)若者たち/ブロードサイド・フォー

解説と感想

ラジオ関西 昭和40年代のアナウンサーのうち比較的若い頃お辞めになったアナウンサー。

2012年6月 8日 (金)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 (第7週 松島武雄さん)※追記有

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第7週 松島武雄さん 2011年11月14日~11月18日放送
お話の要点
S33年ラジオ神戸入社 この前年関西テレビ設立に関連し、ラジオ関西から10人出向・移籍しアナウンサー5名が抜けたため補充することになり 10名が入社した
NHKの試験に最後まで残り (注:大牧暁子さんとときも同様の経歴を聞いたことがある)。東京から来たがもともとは西宮出身・芦屋にも住んでいたが関西の放送事情には疎かった。
関西テレビに移った松本アナの後釜に1名のスポーツアナが必要となった 自分も希望したがだめだった。
当時の大学放送部出身が多く同志社大キャプテンの奥田(ひろゆき)、関学大のキャプテン斉藤(ヒデオ)がうまく、プロ野球は奥田、電話リクエストに斉藤が決まった。
アナウンス学校とは縁の無かったため遅れをとった。
歌謡曲の番組を担当し、三宮の神戸新聞会館の神戸新聞社にニュースを読みに行った。当時は神戸新聞記者が原稿を作り印刷局の片隅にスタジオがあった。
洋楽のラジオ関西。音楽が素人でも環境が良いと音楽通になった。
ネットに左右されないラジオ神戸の野球放送は試合終了まで放送をした。(これが後にサンテレビに伝わることになる)
サンヨーミュージックポストという番組で番組コンテスト1位を取ったことがある。(この話は、大西文子アナウンサーの時に聞いたことがある話しであった。)
昭和43年 当時のラジオ関西 放送第1課がサンテレビに出向する形でサンテレビのナイターが生まれた
ラジオ関西の野球プロデューサ2名も含まれ、アナウンサーは自分ひとりで、サンテレビアナウンサー第一号になった。
しかし、ラジオ関西社員のまま出向し、サンテレビ社員に転籍することはなくフリーアナウンサーとなった。
サンテレビのタイガース戦は、ラジオ関西のメンバー・放送スタイルを受け継いだもので、タイガースの人気も貢献したのも、元はといえばラジオ関西のものであり、サンテレビはラジオ関西に足を向けて寝れないはずだ。
その後32年間サンテレビでタイガース戦を中継した。
(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2011年11月14日(月)有楽町で逢いましょう/フランク永井

2011年11月15日(火)大学祝典序曲/フィラデルフィア管弦楽団2011年11月16日(水)聖者の行進/消防五人組+2

2011年11月17日(木)カウライジャ/ハンク・ウィリアムス

2011年11月18日(金)月光値千金/ナット・キング・コール

解説と感想

ラジオ関西 栄光の昭和33年入社組アナウンサー 斉藤ヒデオ、奥田博之アナウンサーと同期入社の松島さん。

お声を聞いたとたん「すごく歳をくったみたい」に聞こえた。

ちなみにサンテレビでの野球実況中継(オープニング)の動画は下記

http://www.youtube.com/watch?v=FvfaTAZmziQ

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月 7日 (木)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 (第6週 田淵あきらさん)

お話の要点
昭和29年8月採用。3期アナウンサー 1期生の女性アナが他社に行かれたり、結婚退職、第2期生が病気で長期療養し(高橋アナウンサーのことと後日放送でわかる)
ラジオ神戸放送劇研究会?出身 「少年ターザンは行く」にも出演 劇団(夜)と昼間のアナウンサーは両方できず劇団は辞めることになった。
藤田光彦先生との出会い 須磨浦の大邸宅に住む元男爵 クラシックバラエテイの持ち番組 女子アナが担当 音楽発音に厳しい人 毛髪がレコードに悪いということで髪の毛は丸刈り
無駄話はしない。蛾を食べるという噂があった。
当時部長だった青木啓(あおきあきら)さん満鉄におられ(注:正確には満州にあった広告代理店の電通系の国通の社員だったはず)、森繁さんとも交友がある話などをCR喫茶で聞いた。
当時の番組では「あしはらくにこ」さんも出演され、宝塚時代のお話が楽しかった。自分自身は朗読が好きであった。放送劇団からの転身でアナウンサーのように決められたことをいうのが苦手だった(注:今で言う声優志向の意味)
当時社内にタバコ屋・売店・CR喫茶・テニスコート・クッキーという犬がいた 放送部長の高橋太一郎さんの犬で高橋さんがクッキーさんといわれていた。
高橋さんはNHK出身 東京の放送局に移られた(注:TBSと思われる)
社内恋愛が多い 山口まりこさん(元ミス加古川・電車を止めたことがある)というアナウンサーがいたがこの人は見合いで例外的存在 当時社内恋愛は禁止だったので婚約指輪をかくす人も多かった。(事実上機能していない社内通達だったのか)
当時は放送のほとんどが生放送。CMも生放送でアナウンサーは待機者がいた。松本のぶあきアナウンサーの発音が関西弁でこれがおかしく待機中に笑い声が入ったため2人とも始末書となった。
皆川儀太郎さんとも一緒に仕事をした。お坊さんでさまざまな逸話があった。
現在のアナウンサーは声がキンキンしている。速度が速い。当初はうらやましく思った。語尾を伸ばすのが聞きにくい。いろいろな世代の人が聞いていることを認識すべき。
日本語も縮めてしまうのも残念。自分の会社が30年を迎えるときラジオ関西60年の話をいただき運命的なものを感じている。
(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2011年11月07日(月)グランド・キャニオン 山道にて/ミュンヘン放送管弦楽団
2011年11月08日(火)ペニーズ・フロム・ヘヴン/フランク・シナトラ
2011年11月09日(水)夜のストレンジャー/フランク・シナトラ
2011年11月10日(木)ほんとうですか/シナトラ&クロスビー
2011年11月11日(金)ベスト・イズ・イエット・トゥ・カム/フランク・シナトラ

解説と感想
田淵あきらさんは、サンテレビで「赤いほっぺ」という番組に出演されていたらしいのですが、あまり記憶にありませんでした。
もちろんラジオ関西のアナウンサーだったということも知りませんでした。
非常に参考になる話が多く新鮮に聞こえましたが開局当初の女性アナウンサーは辞められたりおおきな病気になるなどの事情があったようですね。
リクエスト曲がシナトラだらけというのも特徴だったと思います。

2012年6月 6日 (水)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第5週 牛尾淳さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第5週 牛尾淳さん 2011年10月31日~11月4日放送
お話の要点
1980(S55)入社-2005退職 金融機関出身の異色スポーツアナ 24歳で入社長島選手に会いたくてアナウンサーになった。長島さんにインタビューできたのは震災の年。グリーンスタジアム神戸でのこと。
当時のラジオ関西の中継はパリーグが多く西宮、大阪、日生、藤井寺、西京極(残っているのは西京極のみ)スタンバイ試合が多かった。
解説者は笠原和夫さん、高井康弘さん梶本さんなど。スポーツアナなのに雨男ドームの無い時代。
野球以外ではラグビーを担当。S63に関西大学ラグビーがスタート。ラジオ日本の染谷アナウンサーが手本。サッカー中継も担当した。
音楽番組では洋楽の「きままなカフェテリア」「神戸アフタヌーンクラブ」ポップスはなじまず演歌志向。矢野泰三さんの影響を受けた。
石井明美さんと番組をもったこともある。
阪神淡路大震災のゆれは、東京出張のため体験していない。温度差があった。ラジオの役割は防災有事だけでなく、普段からやっていくことが必要。
入社当時はバラエテイに飛んでいた。現在はテレビの仕事もするが、基本はラジオだろう。災害がなくてもラジオは聞いてもらえるようにしなければならない。
時代により日本語も変化している。時代もかわっている。アナウンサーはフリーの人が増えている。局アナはしばりがある。昔も今も変わらない。タレント化して欲しくない。
リスナーあってのラジオで感謝の気持ちを忘れてはならない。リスナーだけでなくスタッフ・スポンサーについても同じ思い。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2011年10月31日(月)背番号3/石原裕次郎

2011年11月01日(火)ヒーロー/麻倉未希

2011年11月02日(水)悲しき雨音/カスケーズ

2011年11月03日(木)酒二合/宮路オサム

2011年11月04日(金)ありがとう感謝/小金沢昇司

解説と感想

牛尾淳さんというと、ラジオ関西のスポーツアナで、演歌に強いアナウンサーというイメージである。リクエスト曲のリストを見るとつくずくそのような感じを受けます。この方は定年を待たずに早期に退職されたアナウンサーであるため、この番組に出演した、元アナウンサーとしては年齢的に最年少クラスではないかと思われる。ラジオ関西も局アナが少なくなっているので比較はしやすいが、現役の三上アナウンサー(報道制作局長)と林アナウンサー(報道制作部長)の間で、三上さんに年齢的に近いイメージだ。岩崎和夫さんは、三上さんと同期入社のようだが、やはりラジオ関西は採用する年度では複数者採用で、不採用の年はそれで何年も続くというイメージである。

番組を、ぜひラジオ関西でももっていただきたいアナウンサーの一人だと思います。

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月 5日 (火)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 第4週 山田真知子(中野真知子)さん

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第4週 山田真知子(中野真知子)さん 2011年10月24日~10月28日

お話の要点

公式WEBでは中野真知子さんとあるが、放送では山田真知子をメインとして中野真知子を併用していたという感じである。
1963年(S38)4月入社 6年間の在籍(1969年退職) 組合活動が盛んな時代でストがありいきなりマイクを握った。それが良い体験になった。
外国人タレントのインタビューを英語で行う。サムテーラーのインタビューに思い出。電話リクエストはジャズ評論家の白藤丈二さんと担当した。
神戸市提供の番組を担当した。神戸出身の著名人 高島忠夫、淀川長冶、横溝正史、神戸一郎さんの自宅にも取材に行った。
いとし・こいし師匠の楽屋や、岡林信康さんの取材には島之内教会にも行った。当時3つのスタジオ 1スタ公開放送 2スタ:オンネアスタジオ 3スタ:録音スタジオだった。
フォークルの帰ってきたヨッパライの時代 ミッドナイトフォーク金曜日の担当。 創立16周年の番組ではフォークルを呼んだ。
当時のラジオ関西アナウンサーは22-3名。2年間は一番下っ端。その後新人が入った。言葉は生き物時代により変わる。正しい日本語が変わる。
アナウンサーはトーキングマシンではない。インタビューでも人との繋がりが大事と思う。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2011年10月24日(月)夕日に赤い帆/サム・テイラー

2011年10月25日(火)アウフ・ヴィーダーゼン・スウィートハート
レス・バクスター

2011年10月26日(水)こんにちわ赤ちゃん/梓みちよ

2011年10月27日(木)イムジン河/フォーク・クルセダース

2011年10月28日(金)パフ/ピーター・ポール&マリー

解説と感想

この方は山田健人アナウンサーの奥様。中野真知子さんという名前は過去の資料にも多くありましたが、山田さんとなっていたということはこの番組まで正直知りませんでした
この番組でも、幾度か話題になったようラジオ関西は社内結婚が多い会社というイメージがある。
しかし、それでけ仕事熱心な人が多い証拠なのかも知れないし、魅力的な人が多かったのだろうと思う。
若い頃の女性アナウンサーの写真を見るとつくずくそう思う。男性もそうであるが歳をとってからの写真では過去はわからないものだ。
ただ、声はあまり老けないどころか、現役でも通じるのではと思うこともある。中野さんの声をきいたとき現役でも通じるのではないかと思ったことがある。
選曲では、はじめて電話リクエストのエンデイングであるレス・バクスターのアウフ・ヴィーダーゼン・スウィートハートがかかった。電話リクエスト担当されたアナウンサーには思い出の曲なのでしょうね。
番組では、当時の労働運動などの様子を非常に興味深く聞かせていただきました。

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月 4日 (月)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第3週 前田隆さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想

第3週 前田隆さん 2011年10月17日~10月21日

お話の要点
昭和37年(1962年)入社 平成8.3退職 旧須磨の平屋建ての社屋のんびりしたたたずまい。テニスコートがあった。水泳は禁止だった。
民間放送のできた頃高校1年 ラジオ少年で ラジオを組み立てて聴いていた。
電話リクエストをする青少年も(長い時間を使うため)自宅の電話が使えず、また家に電話の無いものも多く公衆電話から。
ラジオを聞くのもトランジスタラジオは高価で、ラジオを聴くのも苦労する時代であった。
電話リクエストを担当したのはS37.10。相手はポルトガルの一般家庭のお嬢さんでアンナさん。タレントではなかった。
大阪支社で電話を受け付けしたのも、大阪市内の電話は大阪で受付しようという理由から。大阪スタジオの女性は当時同志社大学2年生の末広真季子さんだった。
電話リクエストのファンのつどいという1ヶ月に一度の企画もあったが、はがきで参加者を募集。3000通が来る。10名ぐらいを選びスポンサーの企業に招待した。そこでわかったことは若い人だけでなくお年寄りの方が聞いておられたということがわかった。
若い人だけでなく、いろいろな世代の人を対象にしなければならない。7-4321の代表電話に10台の電話がつながれアルバイトの女性がメモを取るが、曲名の誤りも多くユニークだった。悲しき雨音が悲しき雨戸になっていたものが、わざと訂正もされす届けられる。
デイレクターもこのぐらいわかるやろと試す。このようなことでアナウンサーが鍛えられた。
さんちかサテライトスタジオは屋内のもので、他局は屋外が多かった。番組のときは人が多く集まった。
担当したのは視聴者参加の「のどじまん大会」、週1回生放送なので困ったこともあった。賞品にバイクが出た。桂三枝さんや小曽根実さんが審査員。
この番組は4-5年続いた。ゲストの歌手はスターの出演も多かった。サテスタはリスナーとの接点で距離感が近くなった。
ショッキングなことは、阪神淡路大震災。取材に行くが、避難所では食料が配られるが自分自身も被災者で自宅は全壊でガスも無く食べ物が無いので配給される食料が欲しい。しかし誤解があると困るという問題があった。
ラジオ関西への連絡も、公衆電話に並び、十円玉が不足したときラジオ放送と気づいた後ろの人から10円玉を貰いながらレポートを放送をした
AMラジオはFMラジオとは違うので情報が大切。震災でラジオはみなおされたといえ普段から聞いて欲しい。ラジオはスイッチを入れると勝手に音が出るというものでもない。
放送局側には10円玉を貰いながらも放送を続ける人がいるので放送ができるということも知ってほしい。
(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2011年10月17日(月)イン・ザ・ムード/グレン・ミラー楽団
2011年10月18日(火)思い出のサンフランシスコ/トニー・ベネット
2011年10月19日(水)先生のお気に入り/ドリス・デイ
2011年10月20日(木)魅惑の宵/マントヴァーニ
2011年10月21日(金)峠の我が家/ロジェ・ワーグナー合唱団

解説と感想

前田隆アナウンサーというと、私の記憶にあるのは、趣味のアマチュア無線のことなのであるが、昭和52年頃の日本アマチュア無線連盟兵庫県支部大会で西宮市勤労市民会館で行われたことがあった。その支部大会のステージの司会をされていたのが前田隆アナウンサーであった。前田さんはJH3から始まるコールサインをもつアマチュア無線家であると聞いた。
当時の日本アマチュア無線連盟の兵庫県支部は、ラジオ関西の柳原さんであった。そのため、須磨のラジオ関西ホールでも支部大会をさせていただくなどラジオ関西という会社は地元アマチュア無線家には好意的な会社であった。
ちなみに、当時のラジオ関西のアマチュア無線クラブ局はJE3YCRだった。
かってナマナマ大放送 月曜日に声優(ひょっこりひょうたん島のドンガバチョ役の)藤村有弘氏が出演していたが、藤村有弘氏は有名なアマチュア無線家(JH1BAN)で、ラジオ関西の放送では地元のアマチュア無線家が出演するコーナーもあった。
前田さんは、電話リクエスト担当の人気アナウンサーであったが、電話リクエスト終了後はアナウンサーを離れ、報道記者として勤務されていたようだ。
阪神淡路大震災時、芦屋市役所からの前田さんの声は懐かしく聞こえた記憶があった。
しかし、報道記者として阪神淡路大震災では被災者であるながらのレポートがいかに辛いものかということが改めてよくわかった気がします。

なお下記のブログで、前田隆さんの電話リクエスト最終回(1976.1)を聞くことができます
http://flightsim.at.webry.info/201106/article_5.html

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月 3日 (日)

ラジオ関西電話リクエスト1976年放送(最終回)の録音が聞けるWEB

WEB検索中偶然発見しました。すばらしいサイトです。
このWEBでは

1976年1月の「電話リクエスト」(平日毎日午後7時バージョン)最終回の放送
(1)前田隆アナ、白藤丈二、尾崎芳子さんの火曜日
(2)三浦ひろあきアナ、唐川満知子さんの木曜日の放送

の一部がMP3で提供されています
http://flightsim.at.webry.info/201106/article_5.html

ラジオ関西はFM大阪開局の昭和45(1970)年5月、突然平日の「電話リクエスト」を打ち切り、「ナマナマ大放送」「若いおとなエンジョイヤング」というワイド番組路線に舵をきります。

ラジオ関西のドル箱番組だった「電話リクエスト」は完全な放送打ち切りではなく「ウイークエンド電話リクエスト」という土曜日のみの番組になりました。

もっとも、もともと電話リクエストは週1回の番組でしたが、NRN発足と加盟により独自のプロ野球中継を行うことが困難となり、得意な音楽放送を多く流す局への変更で、電話リクエストを毎日7時から週7日間という看板番組に成長した歴史があります。
しかし、当時のFM番組はFM情報誌で放送する曲名を公開する時代でしたので、FMで電話リクエストなどは頻繁に行われませんでした。FM東京などは、教育放送の使命もあることから高校講座のような番組をゴールデンタイムに設定しておられた時代です。当時のFM局のスポンサーは音響機器メーカーというハードウエアの会社が多く、現在のレコード会社の金銭面の提供で同じ曲ばかりをかけるという風潮もなく、放送はテープ録音(エアチェック)というのが当時の流行でした。民間FM放送の黎明期は放送された音楽を普及されつつあるオーデイオ機器で録音をするというのが流行であったといえるでしょう。

むしろAM放送局の方がヒット曲を発掘するという時代だったと思います。ビートルズの曲が広まったのはFMではなくAMで、「帰ってきたヨッパライ」がラジオ関西の電話リクエストで世に出たことが何よりの証拠と思います。

人気抜群の電話リクエストの打ち切りは時期早々だったということにラジオ関西も気がついた結果なのでしょうか?
再度1974年ごろには局アナを中心に「電話リクエスト」を再開するのですが、この局アナ中心の電リクには「奥田博之・マリアリグレステイ」「斉藤邦雄・小鹿ミキ」のような突出した曜日はなかったように思います。ただし、木元英治、加藤逸子、森山かずみ、三浦ひろあき、前田隆という局アナと大阪スタジオの女性タレントで結構人気はあったはずです。
1976年2月には「海岸通り午後7時」という音楽ワイド・はがきリクエスト路線を中心に電話リクエストは日曜日のみとなります

この録音では、それら当時のラジオ関西の番組を知る上で貴重なものと思います。

なお、このWEBサイトの製作者は関西在住ではなく、「関西地域のラジオ局の中では、一番良く聞き取れる中波局でした。」とあり、確かにフエージングや雑音はあるものの綺麗な音源です。「在京キー局とは違った趣」というラジオ関西ファン感激の解説もされています。
現在も三浦さんは(定年退職後も)現役で番組を持たれていますが、当時はさすがに若い声です。
是非お聞きになることをおすすめします

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第2週 加藤逸子さん)

第2週 加藤逸子さん 2011年10月10日~10月14日放送

お話の要点
1972(S47)-1985在籍 神戸大学教育学部出身 ラジオ関西は家庭的な職場 アットホーム 海の見える職場 浜辺で番組イベントも 電話リクエストを子供のときから聞いていた
会社の雰囲気がカリカリしていない 思い出の番組は全国子供電話相談室 ラジオ関西での製作日の電話のお姉さんを担当した 回答者は王子動物園の亀井一成さん、(作家の)灰谷健次郎さん 竹博士の室井先生 
(注:全国子供電話相談室のうち週1回は地元放送局で製作するものだったという出演者に誤解あり 地方製作はラジオ関西だけで他はTBS製作で別番組1日はラジオ関西のみ)
当時は海原小浜、眉村卓、サトウサンペイ、桂三枝さんの番組があった。
当時のラジオ関西の社員数は120名、社内に活気があった。勤務は10時から18時。男性アナウンサーには泊まり勤務があった。
当時は散髪屋さんが社内にあった。男性はよく利用されていた。取材はデンスケであったが非常に重たかった。取材に行って(心に)傷ついたことがある。「加藤逸子さんですか。声かわいいですね」とか。
ラジオをつけて楽しくなるような番組、音楽番組でも多くの資料のあるラジオ関西の特徴を生かして欲しい。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2011年10月10日(月)サンライト・ツイスト/ジャンニ・モランディ

2011年10月11日(火)スモーク・オン・ザ・ウォーター/ディープ・パープル

2011年10月12日(水)ひまわり/ヘンリー・マンシーニ

2011年10月13日(木)私の孤独/ジョルジュ・ムスタキ

2011年10月14日(金)エデンの東/ビクター・ヤング楽団

解説と感想

第2週に登場されたのは、後にフリーアナとなられ、東京進出しFM東京系で全国ネットの番組を担当されるなど大活躍をされた加藤逸子さん。
おそらく、ラジオ関西出身でフリーとなられた方で大成功された方の一人といっても過言ではないでしょう。女性アナウンサーでは小山乃里子さんの後の世代なのですが
小山さんは、ABC、MBSやFM大阪など関西各局で活躍をされ、ラジオ関西にも番組を持たれましたが、加藤さんは、どちらかというと東京に活動拠点を移したフリーアナウンサーという感じなのですが、フリーになる時期が、ちょうど奥田博之さんがフリーになられた前後のことであり、ラジオ関西はすごいアナウンサーがいたのに失ってしまったのかという思いがありました。

なお、加藤さんのFM東京の番組はペンタックスミュージックマインドという番組名で検索すれば多くの方に親しまれ、今でも語り草になっていることもわかります。

http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&aq=hts&oq=&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4ADRA_jaJP454JP454&q=%e3%83%9a%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%83%e3%82%af%e3%82%b9%e3%83%9f%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%82%b8%e3%83%83%e3%82%af%e3%83%9e%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%89

いずれにしても加藤さんも伝説のアナウンサーのようになっていたのですが今から丁度15年ぐらい前、知り合ったある方から「僕の奥さんは加藤逸子」と聞いて驚いたことがあります。(知っている人は言わないようにね)

震災後、加藤さんはラジオ関西の番組に復帰されておられるのですが、中でも「名曲ラジオアワー」という番組は電リクを担当した三浦紘朗さんとともに、加藤逸子さんが当時のエピソードや
リスナーからの思い出の葉書などを交えながら選曲していく本格的な洋楽専門番組として評価が高かった。
今回の放送も「さすがに音楽番組を担当した加藤さん」だけあって洗練されたリクエスト選曲をされておられたと思います。私のようなものは、当時のテーマ音楽のひとつでもと思ったことはあるが音楽よりも当時の会社の雰囲気を良く伝えていただいたと思う。

釣りが趣味だった奥田博之さんのことなどが出ていたのが印象的であった。

-----------------------------------------------------

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月 2日 (土)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 (第1週 大中照幸さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想

第1週 大中照幸さん 2011年10月3日~10月7日放送

お話の要点 特筆メモ
アナウンサーの第1期生は10名。内訳は男子7名女子3名
最高年齢36歳のまつかわけんじ(松川謙次)さん。京都帝国大学法学部卒で船会社から転身、2番目はわしお(鷲尾巌)さん。後に専務になられた方。34歳で税務署のお役人から転身
3番目は皆川儀太郎さんこの方は駒沢大学の僧籍があり、お経が読める人で長丁場が得意、4番目が まついまさかず(松井政和)さん早稲田の仏文で文章が書ける人、(5人目は)まさいたくみ(正井巧)さんはバイオリンが弾ける人
女性では小山美智子さん、まえだあきこ(前田昭子)さん、たきれいこ(高城禮子)さんこの方は神戸女学院の音楽科卒 そして私が神戸大学3年在学中の20歳、たきれいこさんも20歳でした。
もう一人わすれていました、とのむら(殿村收史)さんこの人は薬剤師さんだった人・・
ラジオ神戸は独自性を発揮しないと大阪局に負ける 個性を発揮しなければならなかった。
アナウンサーではないが当時松村ひちろうさんが課長でアナウンサーはこの人の指揮下に入った。
クラシック音楽が六十数%、藤田光彦顧問、朝比奈隆、辻久子が審査した「クラシック登竜門」生演奏の生番組だった。
他に「窓辺の音楽」という 中堅音楽家の番組。当時はクラシックのラジオ神戸が定着していた。

個性を出すために民間放送初のプロ野球中継(S27/7/15)を実施した。
南海、阪急、近鉄パールズ日生球場のこけら落としにもラジオ神戸が行った。試合終了後オーナーの挨拶を受けた。近鉄は低迷の時代だった。オーナーが来たのも中継はCRのみ。
野球解説者では南海関係で村上かずはるさん、元阪神の御園生 崇男(みそおおたかお)、パリーグの審判部長だった横沢三郎さん。この方は 戦前東京セネターズの監督だった。
青田昇さんが晩年阪急で引退、ラジオ神戸の解説者を無理言ってお願いした。後日青田さんが雑誌で「今自分がこうして野球で食べていけるのもラジオ関西の大中のおかげ」といっていただいた。

(アナウンサーのリクエスト曲)

2011年10月03日(月)
ガザラドラ序曲
2011年10月04日(火)
スケーターズ・ワルツ/マントヴァーニ
2011年10月05日(水)
南海ホークスの歌/灰田勝彦
2011年10月06日(木)
スポーツ・ニュースのテーマ音楽
2011年10月07日(金)
ゴールデン・ナイターのテーマ音楽

解説と感想
記念すべき「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」第1週の担当は、第1期アナウンサーの大中照幸さん。
実は私の手元にある資料のうち、公式資料ともいえる「ラジオ関西50年史」には、設立当時のアナウンサーリストがあるのだが大中さんの名前は記載されていない。大中さんは、後にラジオ関西専務取締役にもなった方で、昭和30年代のプロ野球中継のプロデューサとして実況中の奥田博之アナウンサーや解説者の横沢三郎さんとともに写真が掲載されていた人であった。ラジオ関西のOB会長のようであるが、そのような方を間違えるとは謎でもあった。
しかし、話を良く聞くと大中さんは昭和27年の開局時点では、神戸大学に在学する学生であったという。そのような若き人々で作られた放送局だからこそ開局60年の現在でも多くの人々が元気にご活躍なのだろう。
開局時に成人式を迎えた人たちも今や80歳。鬼籍に入られた方も多く、この企画もぎりぎりの決断であった訳だ。10年後では、このような話をきけるかどうかわからない。
大中さんは、80歳とは思えない声で、さすがに元経営陣で、ラジオ関西を知り尽くした人がトップバッターになったという感じがしました。
しかしよく考えると、私がラジオ関西を聞き始めた頃に活躍されていたアナウンサーは三浦ひろあきさんが若手(といっても現在は70歳超)、当時のアナウンス部長の奥田博之さんでも、1933年生まれと聞いたことがあるので2012年現在では78~79歳なので第1期アナウンサーの大中照幸さんとの年齢差はそれほど無いということに気がついた。奥田さんがラジオ関西に入社したのは昭和33年、(実際には昭和32年の夏から社員同様に働いていたことはこの番組でもご本人の口から説明されていたが)昭和32~3年は開局5年目の年であったが、それ以前のアナウンサーは本当に関西テレビやサンテレビに行ってしまったのだろうか?そのようなことを強く感じさせられる放送だった。(実際には朝日放送テレビや読売テレビという新設テレビ局に移られた人も多かったようだ。このことについては今後検証します)

リクエスト音楽の選曲内容は第1期スポーツアナウンサーにふさわしく、開局当時の曲、スポーツ関係の音楽に集中していたように思う。後の時代のアナウンサーはスポーツアナでも、さまざまなジャンルの音楽を取り扱われていたのでかえって大中さんの選曲は際立ったものになっているように思う

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなり
ました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

2012年6月 1日 (金)

尾崎紀世彦さんとラジオ関西

尾崎紀世彦さんが死去されたということ。ご冥福をお祈りします。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120601-00000100-spnannex-ent
尾崎さんはかってラジオ関西で番組をもっておられました。
このことを知ったのは「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」の三浦さんのお話でした。
また会う日までを出したが当初あまり売れず、レコード会社の方針でラジオの提供番組をもった
毎週日曜日、尾崎紀世彦さんが付き人無しで神戸さんちかのサテスタで30分番組を一緒に担当したということ。

http://jocr.jp/60th/index.html
ラジオ関西60年
2012年2月15日(水)三浦紘朗

また逢う日まで/尾崎紀世彦

これはいつの時代の完成予想図

井川宏之先生からいただきました

現在とは似ているような似ていないような・・・。

Amkobel

« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »