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2012年6月29日 (金)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第19週  殿村收史 さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第19週  殿村收史 さん 2012年2月6日~2月10日
お話の要点
開局時入社のアナウンサー1期生
開局が昭和27年4月であるが、前年昭和26年9月15日に入社してラジオ東京(TBS)のアナウンサー研修を受講したという殿村さん。
第1期生のアナウンサーは、開局第一声の皆川儀太郎アナウンサー以外は素人であったという。
皆川儀太郎アナウンサーは、当時あった「ニュース映画」のアナウンサーであった。

開局予定日(昭和26年のクリスマスの日)を控えたTBSの1ヶ月半の研修は、TBSが全国の放送局に向けて参加を呼びかけたアナウンサー研修で、ラジオ神戸、ラジオ京都(KBS京都)、札幌(北海道放送)が参加した。
そのTBSアナウンサー研修の講師には (NHKの)松内則三(まつうちのりぞう)、和田信賢(わだしんけん※NHK第1期アナ)という伝説のアナウンサーであった。
当時の須磨のラジオ神戸は、まさに文化の発信地だった.たとえば「お笑い磯馴亭」第1スタジオで公開録音 司会がうらく・さらくさん 夕方には学園放送局という番組大学の放送部から幼稚園までという番組。
CR劇団もあった。川柳コント 邦楽の番組など多彩であった。
当時は民間放送がはじまったばかりの頃。何をやっても新しい時代。
開局直後の4月10日(?)もくせい号の事故が起こった。
(注:もく星号墜落事故は、1952年4月9日に日本航空羽田発福岡行の便が伊豆大島に墜落した航空事故のことで、全員無事の誤報が出たもの。4月10日は誤報の放送の日か、何かの誤りと思われる)

この事件には誤報があった。墜落したはずの飛行機が福岡に到着したという誤報。戦後の3大誤報に数えられる。自分は報道の横にいたばかりに誤報に巻き込まれた。これがラジオ神戸の臨時ニュースのはじめであった。
クラシックの藤田光彦先生の番組で臨時ニュースが読まれた。

デンスケをはじめとする録音機の思い出
当時、録音機はテープに録音するのではなく針金に録音するものだった。西ドイツ製のものだった。
街頭インタビューは困難をきわめた。当時の神戸の人はシャイでなかなかインタビューに応じてもらえない。
「録音スナップ」という番組。泊まり明けのアナウンサーが担当した。
進水式の実況が男性アナウンサーの花の仕事。舟に乗せてもらったことがある。
須磨寺の除夜の鐘を事前に録音して失敗した。
スターリンが死亡のとき、神戸市内のロシア料理の店に取材に行ったが 期待したものとは全然違う内容でボツにせざるを得なかった。
県立芦屋高校が高校野球で優勝し、そのパレード取材に行って故障したが。提灯行列参加者に技術の社員がいて直してもらい間に合ったこともあった。
また。かんなべ国体のとき、雪の上にデンスケを置き油が凍り録音できなくなる事故も体験した。
ところが、北海道の放送局は機材の寒さ対策(毛皮に撒かれていた)ができていたので問題は起こらず関心したjことがあった。

電話リクエストの思い出 

S27年当時労働争議が多く、土曜日の泊まりを担当した、夜中の3時ごろでも私鉄情報として2時間おきに電車の運転情報などを流した。
そのとき、かける音楽の要望をお聞きしますといったところ、電話が鳴り続け寝られないようになった。
当時は夜中に、こんなに放送を聞く人が多く、夜中に電話をかける人がいるとは思わなかった。
このことを 高橋太一郎副部長に報告し、電話リクエストのきっかけとなった。

スポーツプロデューサへ

開局5年目に兵庫県で開催される国体のプロデューサになりアナウンサーを離れた。(アナウンサーをやっていたのは5年ぐらい。)
国体は、秋が王子、夏は甲子園大プール (冬は)かんなべ
アナウンサーが足らないので、MBSやKBSに応援を頼んだ。
各地の放送局から地元の出場者の部分の実況中継を送るという仕事であった。

インタビューをするとき、「そうですね」と肯定するだけでなく、「いいえちがいますよ」という否定するようなインタビューも必要。
神戸で震災が起こったとき、「どうでしたか」「いかがでした」と そういう人にやさしい面があった。
ラジオ関西が人にやさしい放送局であり続けて欲しい。これがある限りラジオやテレビが立派な番組を続けられる。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2012年2月06日(月)ラ・メール/シャルル・トレネ
2012年2月07日(火)パダン・パダン/マントヴァーニ
2012年2月08日(水)ラストダンスは私に/ダニエル・ダリュー
2012年2月09日(木)シェルブールの雨傘/サウンド・トラック
2012年2月10日(金)サンジャンの私の恋人/リュシエンヌ・ドリール

解説と感想

ご自身も素人だったと振り返る殿村さん。こちらの調査では、ラジオ関西3周年記念誌(CR手帳特別号)では、薬剤師出身の異色アナと紹介されています。
その殿村さんも、ラジオ神戸が関西テレビを設立するとき10名の出向者を出すのですが、おそらくそのときにラジオからテレビに移られるということになります。
殿村さんの名前(殿村收史/殿村収史 の2つの表記があります)で検索すると関西テレビ関係ということが辛うじて残っています。
さて、このラジオ関西60年の登場アナウンサーも、古い時代のOB・OGが目立ちます。
古い時代のアナウンサーは、ラジオ神戸に憧れ入社するのですが、テレビ開局により即戦力・経験者として、周囲の要請、本人の希望、あるいは社命という形でラジオ神戸を離れます。
しかし多くの方が、このような形で60年を迎えようとするラジオ関西に戻って声を出されています。
実は30年前の「ラジオ関西30年」の記念番組の時には、玉井孝さんが出演されておられる(30年前は朝日放送在職のはず?)のも今から考えると不思議なのですが、そこには良い意味での古い時代のアナウンサーの凄さを感じます。
なにか、ご自分の原点にラジオ神戸があるというように位置づけておられるように感じました。

なお、殿村さんは、この番組でラジオ神戸第1期アナウンサーは11名でなく9名という発言がありました。ラジオ関西社史(50年史)では10名。当時の新聞記事では11名だったようです。アナウンサー入社でない人がアナウンサー業務をされていた可能性はありますし、アナウンサー入社のはずがアナウンサー以外の業務を担当されていた可能性もあります。このあたりは今後の検討材料にできそうです
この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

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