2023年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« ラジオ関西番宣CM(1990)サンテレビ | トップページ | ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 (第15週 玉井 孝 さん) »

2012年6月17日 (日)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 (第14週 小山乃里子さん) 

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第14週 小山乃里子 さん 2012年1月2日~1月6日
お話の要点と解説
昭和40年1月11日の入社在職は約6年半1月入社ということで、試験は前年10月に実施。大学卒業後、松下電器の広報でアルバイトをしていたという小山さん。ラジオ関西の募集を知り大学の放送部の後輩と受験するようになったのは、前年広島の放送局で最終まで残っていたこともあり「最後の砦」としての受験となったみたいである。
当時入社試験は、他の方の話にあったように1000名を超える受験者数だったようである。当時枚方市に住んでいた小山さん。遠いなあとおもいながらも試験を受けた。
この時期に入社試験をしているのは、たぶん退職者の関係だと想像している。
 ラジオ関西の入社試験の音声試験は写真を見て話を話をするスタイル。前年広島の放送局の最終面接まで残っていた小山さんであったが、若い高卒に負けたのは、都会の大卒では結婚などですぐ辞めるからと考えられたから。ラジオ関西の応募では、アルバイト先の松下電器の広報部長の推薦もあったようでありがたかった。
生まれは小樽。小学校のとき枚方に親の仕事の関係で引っ越した、そこで男子からひどい「いじめ」にあった。しかし女子を仲間にして乗り切った。
ラジオ関西に行きたいと思ったのは「電話リクエスト」がありこれを担当したかったから。大橋巨泉さんなど東京から有名人が来ていた。
入社1年目に、東京からきていただいた音楽評論家の木崎義二さんと番組をした。その後は白藤丈二さんとご一緒した。
この頃 高校生だった桂文珍さんが篠山からリクエストしていたがかけてもらえず、後年「かけてもらえなかった」と言われたことがある。
「僕の鉛筆とママの歌」という番組を担当し、足かけ8年ぐらい続いた。子供の扱いに苦労した。このときアナウンサーを捨てて対応した。
新年の神戸港の汽笛を全国放送するため当時加入していたNRNで大晦日の夜神戸港から10分間中継に2時間前から待機していた。

入社1年目の昭和41年~42年に「ミッドナイトフォーク」という番組を担当し「ヤングフータナニー」というサブタイトル曜日を担当
毎週2組のアマチュアを呼び、話を聞き歌を演奏してもらうというスタイル。「赤い鳥」「高石ともや」や「ジローズ」なども出た番組。
1年ほど続けた。ベトナム反戦色が強かったため終了したのではないか。王子公園での公開番組で森山良子さんが高校生の頃出演したがその司会をした。
京都で活躍していたフォークルも大学卒業間近となり解散を決め、解散記念に作成したレコードを、この番組に持ち込んだという。
その曲こそが「帰ってきたヨッパライ」フォークルの出世作である。シングル版にもラジオ関西の放送で紹介されたと記載されていた。
関西フォークが大ヒットしたのはこの曲が最初であるが、そのメカニズムは次の通りであった。

その後、ラジオ関西の電話リクエストでも放送され、その電話リクエストでDJをされていたのが木崎義二さん。木崎さんは昭和42年8月から電話リクエストを担当されており、この電話リクエストを木崎さんと担当されていたのが小山さんである
その木崎さんの友人がニッポン放送の亀淵昭信さん。オールナイトニッポンのDJもされ、後年ニッポン放送の社長となった人だ。

2012年1月3日放送では、木崎義二さん(東京在住で音楽評論家兼洋楽雑誌「TEENBEET」編集長)の誘いを受けて、小山乃里子さんが東京に遊びに行き、そこで、亀淵さんと出会う話が紹介されていたが、その背景にはこのような事情がある。
なぜ、このことを私が気がついたのかというと、ラジオ関西の洋楽CD第2集の「ご挨拶」(p2-3)に紹介されている。

(参考)2010年7月16日 (金) ラジオ関西ファン ブログ
ラジオ関西の洋楽100曲CD第2弾を購入しました
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-7a99.html

もちろんこの中で小山さんの名前は無いがミッドナイトフォークと、電話リクエストで木崎さんとのコンビの小山さんが情報を伝えたということが想像できる。
なお、帰ってきたヨッパライがラジオ関西で紹介されたのが昭和42年9月下旬で10月13日に亀淵氏に音源を渡し、10月14日の「高崎一郎のオールナイトニッポン」で放送され、全国的にブレークしたようです。
ミッドナイトフォーク(深夜12時から1時間の録音帯番組)という番組は、ラジオ関西では1年で消えてしまいます。その理由は小山さんは「ベトナム反戦」のイメージが強かったことが原因と考えられているようです。
スポンサーの意向といっても、このミッドナイトフォークにどれだけのスポンサーがついていたかはわかりませんが、若者を対象としていたのは小山さんの曜日。もっとも当時は小山さんも若く、大学生たちとそれほど年齢はかわらなかったようです。番組でも言われていましたが高石ともやさんと同年齢のようです。

ビバタカラジェンヌという長寿番組がある。ラジオ関西で30年以上続く番組。これを当初から担当したのが小山さん。タカラヅカは見たが「はまり込む」ことはなかった。他にやりたいことがあったから。
ラジオ関西の正月番組で「ツレとノコでおめでとう」という鳳蘭さんと特別番組を3年ぐらいやったがそれが縁で宝塚の舞台を見ることになった。
現在では、今のトップスターも小さいときから知っている。男性ファンも増えてきている。
小山さんは、歌謡曲・演歌からポピュラーまでさまざまな番組を担当した。ブレンダ・リーにインタビューを命じられた。英文科出身やろといわれてやった。
三橋美智也さんのインタビューなど、須磨には大物歌手が次々と来ていた。
ラジオは元気が無い。残念。若い世代が少ない。若い人にも聞いて欲しい。聞きやすい放送をしてほしい。
元気のある放送、聴きやすい放送を心がけている。歌謡曲が少なくなっている。歌詞がわからない曲が多い。昔と比べそちらに逃げる。英語と混ぜるので余計おかしい。毛嫌いはしていないが良い音楽が少なくなった。
ラジオを聴いて欲しいというキャンペーンをしたい。ラジオの可能性。なくなってはいけないメデイア。
ラジオを友達に勧めてほしい。
ビートルズの来日時、行けなかったのが残念。最後のリクエストはビートルズのミシェル。
(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2012年1月2日(月)ラヴ・ミー・テンダー/エルヴィス・プレスリー
2012年1月3日(火)おふくろさん/森進一
2012年1月4日(水)帰って来たヨッパライ/フォーク・クルセダース
2012年1月5日(木)おゝタカラヅカ/宝塚歌劇団2012年1月6日(金)ミシェル/ビートルズ

感想など

小山乃里子さんといえば、放送業界・特に関西地方では知らない人がいないぐらい有名な方で、女性フリーアナの大御所的存在。
今まで出演された歴代アナウンサーの方は、一部の例外(牛尾淳さん、木元英治さんなど)を除き、かなり高齢の方が多く、現役引退後ひさしぶりのマイクという人が多く、それでも元アナウンサーだけあってしかりされているなという感がありました。
しかし、小山乃里子さんの場合は、年齢を感じさせないといえば言いすぎかもしれませんが独特の小山節というか、話のテンポにも独特のスピードの流れがありました。
北海道小樽出身で小学生の頃大阪に来られ、ラジオ関西の電話リクエストにも憧れ、電話リクエストも担当されたという小山さん。
新年のトップバッターにふさわしい内容の濃い放送であったと思います。まさか小山乃里子さんが「帰ってきたヨッパライ」に深く関わったラジオ関西の当事者だったとは知りませんでした。

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

« ラジオ関西番宣CM(1990)サンテレビ | トップページ | ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 (第15週 玉井 孝 さん) »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

« ラジオ関西番宣CM(1990)サンテレビ | トップページ | ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想 (第15週 玉井 孝 さん) »