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2012年6月11日 (月)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想(第10週 大西文子さん)

ラジオ関西60年 各出演者の話題要点と解説・感想
第10週 大西文子さん 2011年12月5日~12月9日
お話の要点
昭和35年(1960)3月入社退職は1964年12月ということですが、社員の4年間に加えその後はアルバイトとして勤務されていた
通産6年の勤務。須磨の木造社屋の時代。家庭的な社風。大学時代の学生放送出身(MBS,CR、KBSの各局で活躍)
入社後の研修はなかった。同期に五明由美子さんがおられたが、こちらは関学の放送部出身。
初日は歌声は風にのっての初代テーマソングであったピチカートポルカをリクエスト。

青木さん(後年社長になった青木啓氏)と「めくり」をするなど家庭的な雰囲気。
アナプールだけでなく、技術やプロデューサの人たちも暖かい人が多かった。
電話リクエストでは前田隆さんや松島武雄さん、大橋巨泉さんと一緒に担当した。
大橋巨泉さんは飛行機で東京から来られたので ぎりぎりに駆けつけることが多かった
大橋巨泉さんは番組終了後、神戸に宿泊するのではなく東京に引き返すスケジュールであった。
その後、インドネシアの国営放送で日本語放送を担当することになります。
インドネシアから日本に帰った大西さんは日本語の変貌に驚くばかりか、マナーの悪化にも驚いた。
ラジオ関西の放送は変わっていない。CMは仕方ないと思っているが。非常に良かったと思っている。

(アナウンサーのリクエスト曲・選曲)
2011年12月05日(月)ピッチカート・ポルカ/パーシィー・フェイス

2011年12月06日(火)月影のキューバ/森山加代子

2011年12月07日(水)慕情/デヴィッド・ローズ

2011年12月08日(木)恋人よ/五輪真弓

2011年12月09日(金)上を向いて歩こう/坂本九

解説と感想
さすがにこの時期になりますと、私自身の記憶にはリアルタイム的には無い時代ですが、大西さんのことは過去の資料で拝見したことがあります。
大西さんの話題は4日目~5日目はラジオ関西退職後のインドネシアでの話題が大半でラジオ関西60年から少し外れた話題も多かったが、ラジオ関西で活躍されたアナウンサーが、インドネシアの国営放送で日本語担当として活躍されたことはすごいことなのだなあと思いました。

この昭和35年という年は、1月1日に神戸放送株式会社から株式会社ラジオ関西に社名変更し出力10kWに増力した年です。
大西さんが在職した時期である昭和35-39年というと関西テレビ開局により、いったんはテレビ放送開局をあきらめたように思われたラジオ関西でしたが、1964年の社報JOCR第8号に掲載された当時の組織表によるとFM放送やTV放送を視野に入れた「FM・TV準備委員会」(委員長 関口寿一氏)が設けられたり、「ラジオ関西音配」という子会社の設立が行われたという時期でした。
この子会社は朝日BGMと契約し、神戸以西の兵庫県の企業・学校・病院などのBGM販売だが、将来のFM開局を見据えた動きだったという。

当時神戸新聞の社長で、ラジオ関西社長だった田中社長は、もともと朝日新聞出身であったことは以前記事にした通りで、ラジオ関西を設立した企業のひとつである「神港新聞」も、神戸新聞と朝日新聞の関係がある企業だったことにも注意しておきたい。

当時の社報JOCRによると、大西文子さんは 電話クエストの金曜担当ということである。
この時代のラジオ関西は意外と思われるかも知れませんが本当に音楽放送局として親しまれ、電話リクエストなどの看板番組を有する放送局として知られ、営業的にも強く、1964年は「電話リクエスト」が1週間とも大阪・神戸でも最高の聴取率を上げた年だったようです。いわゆる電話リクエスト黄金期です。
また、ラジオ関西のナイター中継の解説陣には後藤次男氏が起用され、ラジオ関西制作のナイター中継は、対象は、東海・中国・四国・九州の基幹制作局5社とネットを組んでいたようです。
社報JOCR第7号によると当時はJNN系列とFOLラインがラジオ関西のライバルだったようです。JNNとはTV局のネットですが(ラジオはJRN)、この1964年当時JRNというのは出来ておらず、テレビのJNN系列が成功したため、これをラジオの系列に応用しようとしたものだと考えられます。ラジオのネットがTVに移行したわけでなく、TVの成功により、ラジオのネット化が進められたということのようです。

FOLラインとは、参加局のコールサインからとったもので(福岡RKBのJOFR、大阪MBSのJOOR、東京ニッポン放送のJOLF)。すなわち、この時代はNRNもできていない時代であった。

今では、ラジオ関西はNRNを脱退した独立局という感じであるが、NRNができるまでの時代では、JNNやFOLに対抗した時代があるということだ、したがってラジオ関東(RFラジオ日本)のRFラジオネット加盟の背景には、ラジオ関西のこういった歴史もあることは見逃せない。

事実ラジオ関西はラジオ関東と野球中継のネットを1960年代当初組んでいたが、NRN開設直前は、ラジオ関東はKBS近畿放送をパートナーにしていた。

つまり、NRNが出来たことにより、ラジオ関西が、得意としていた野球中継の他局への番組販売が見直されたということだ。NRNができるまでは「プロ野球」と、シーズンオフの「電話リクエスト」としていたが、NRN設立以後は、一年中「電話リクエスト」に移行してきたのである。

ラジオ関西は電話リクエストが強すぎたため、音楽局のイメージだが、日本で最初のプロ野球中継をしたのもJOCRであることはあまり知られていない。
(その伝統と技は結局サンテレビ開局により、サンテレビのプロ野球中継に移行したようなものである。このことは、「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」での松島武雄アナウンサーの証言でも明らかになっています。)

なお、大西さんの話にあった「めくり」というのはアナウンサーが大部屋でする一種の遊びでお茶代などを負けたものが負担するというゲームのことらしいのです。

「めくり」のことは、多くのアナウンサーが話題にされています。

くわしくはまた今後

この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」は、かって2012年3月までラジオ関西で放送されたものです。
このブログでも、毎週月曜日分の登場者を紹介して応援していましたが もう少し整理したものが欲しいという声が多くなりました
ここに紹介するものは膨大な情報量のうち要約の一部に過ぎませんが、どのような内容であったかというメールが多く参考にしていただくものです
つまり、あらすじ的に表現するものです。したがって発言者にとって大切なことが抜けているということも十分に考えられます
したがって綿密な検証が必要なののはオリジナルをお聞きになってください

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コメント

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この歌は 最高ですね。未来 九ちゃんのような歌手が 日本に出てくるかナァ?音楽同好会(名前検討中 坂本九を語る会
こないだ 坂本九さんの 上を向いて歩こう を 独りカラオケで 歌って 点数70点でした。カラオケ同好会(名前検討中

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