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2012年5月20日 (日)

2012年神戸まつりの2日間

今年の神戸まつり5月19日(土)は各区のまつり。
私は兵庫区の新開地パレードと灘区の六甲ファミリーまつりに行きました。兵庫区のステージの総合司会は、ラジオ関西でもおなじみ津田なおみさん。お目当ては神戸サンバチームの新開地パレードです。

灘区の総合司会のメインは、小崎くに子さん。小崎さんは電話リクエスト世代にラジオ関西でも活躍された方です。

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声は昔とかわらず聞き覚えのある声なのですが、この数年灘区の司会をされておられるようです。

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小崎くに子さん(右) 六甲ファミリーまつりステージ

灘区のパレードは畑原青年会の地車(本物)が登場。ひさしぶりのだんじりの登場です。

5月20日(日)は三宮フラワーロード一帯で行われるメインフェステイバル。
今年はラジオ関西は「おまつり広場」で11時前に「演歌一直線」のステージ。松村和子さんや出光仁美さんも見たいところですが
おまつりパフォーマンスのダンシングチームKIRARAの写真を撮るため、ラジオ関西では三上公也アナウンサーとお会いできたぐらいでした。
その後、ラジオ関西のステージや公開放送を見物しまいた。
ダンシングチームKIRARAのダンスの使用曲がワタナベフラワーの「てんとうむし」であったことに驚いた次第。ワタナベフラワーはラジオ関西のステージもあるみたいだった。
ラジオ関西は 開局60年というポスターがありお気に入り確定。

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ステージ司会は、林アナウンサーと西村愛さん。

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その他 恒例のラジオ関西の神戸まつりのうちわを貰うが少し小さくなった感じがする。しかし携帯にはいいのかもと思う。
ラジオ関西のステージは演歌一直線のときは、高齢の方が非常に多く、アニラジなど番組による差異は見ていてなるほどと思う。これがAM局なのだなあと改めて感じた次第でした。
他は、サンテレビの中継席には田中さなえさんを発見。昨年と同じく、市長出演があり、スタジオ近くには市長随行カメラマンの井川先生らしき人を発見。ご挨拶もできず残念だった。

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意外だった奥田博之さんの「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」

昨年秋より、ラジオ関西開局60周年のプレイベント的な発想で放送された「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」
このブログでも多く取り上げ応援をしていたのですが、最終回の出演が奥田博之さんだったこともあり、何度も録音を聞き直し、改めて考えさせられることが自分の中に生まれてしまいブログの更新も1ヶ月にわたりストップとなってしまいました。申し訳ありません。

トリが奥田博之さんだったことについては、もちろん喜ばしいことであり、なんら問題はありません。
私が、実際に奥田さんやマリアさんの電話リクエストを聞いていたのは小学生時代であり、その後「ナマナマ大放送」で当時売り出し中の笑福亭鶴光師匠の番組を毎週聞いていたことがありました。
当時から、鶴光さんは奥田さんのことをアナウンス部長であることを言われていましたし、他の番組でも春闘の放送ストのときも奥田さんは管理職なので出演、その時に植えつけられた奥田さんのボス的なキャラクタであり、それは当時のラジオ関西を代表するアナウンサーで、その後フリーになり、YTV2時のワイドショーの司会で知名度は全国区になっていても、ラジオ関西の人気アナウンサーであったことから当然のことのように思っていました。
奥田さんの同期には多くのアナウンサーがおられたことは聞いていましたが、サンテレビ設立時に出向となった松島武雄アナウンサーなど知っていましたが、ラジオ関西に残ったはずの奥田さんはフリーになってもラジオ関西の番組出演は無く松島武雄さんは、ラジオ関西で兵庫県の広報番組「ひょうごフリータイム」を担当されるなど、すれ違いのあるもののベテランアナウンサーの風格があったものです。
松島さんはサンテレビの創設時ラジオ関西から出向になりサンテレビ第1号アナウンサーとして有名でした。サンテレビに移られて偉くなられたのだと思い込んでいたのですがサンテレビ社員とはならずフリーアナとなられたのも、この番組で知りましたが松島さんは、ラジオ関西60年の放送に出演されたときは、同期10名のアナウンサーのうち、電話リクエストは斉藤ヒデオアナに決まり、プロ野球は奥田博之に決まり、自分は取り残されたというような話をされていました。松島さんは、サンテレビのプロ野球実況中継で有名ですが
野球実況は、ラジオ関西のとき担当されていたのではなく、サンテレビに移られてから担当されたようです。しかし、サンテレビのプロ野球中継陣は、ラジオ関西の放送第1課がサンテレビに出向されたので、ノウハウは伝わったということですが、そのときの課長が松島さんだったようです。
このように、奥田さんの同期のアナウンサーがラジオ関西を離れますので、1970年代には奥田さんがアナウンサーの筆頭格になっていたのですが、私が知る頃には奥田さんはKINGだったのです。
しかし、この「アナウンサーでつづるラジオ関西60年」での奥田さんのお話では、信じがたい話題がされていました。
実は斉藤ヒデオアナウンサーが同期の出世頭で、入社早々電話リクエストの担当者に抜擢されるだけでなく当時の経営陣から期待されていたのは斉藤ヒデオアナであり、そのことが彼らが会社を去る遠因となったということなのです。
このような話を奥田さんがされるとは思ってもいなかったのでものすごく印象に残りました。
たしかに、斉藤ヒデオアナウンサーは1963年12月に副部長で依願退職されておられます。1964年では主任に松島さんと奥田さんの名前がありますが、チーフ挌は年長の松島さんだったようです。
これから考えると奥田さんの話の裏づけがとれたように思います。
ただし、奥田さんも謙遜しておられた話の内容でしたから、奥田さんの放送は「面白ければそれでよく、ためになるとは言われなかった」と言われていましたがそれだけではなかったと思います。
先日読ませていただいた「電話リクエスト物語」(神栄赳郷著)には、奥田・マリアの金曜電リクで、リスナーが緊急輸血の必要な高校時代の友人を助けるためラジオ関西に電話したところ、奥田さんが放送で協力をよびかけたところ多数のリスナーが協力したという心温まる話が掲載されています。
なお、著者の神栄氏は、郷土史家としても著名な方で著書も多いのですが、この方は昭和30年代に電話リクエストのプロデューサで、執筆の昭和43年当時はラジオ関西の放送管理課長だった方です。
その後、神栄氏は、サンテレビに移られたようですが、全盛期の電話リクエストのことを細かく記録されておられます。

なお、この5月のゴールデンウイークには、国恩祭という東播州地域の祭りが姫路市の的形にある湊神社で21年ぶりに行われましたが、これを見学に行きました。
これは山陽電鉄の駅のポスターで見たので、写真でもと思い伺ったのです。
その神社の宮司さんの名前が記念碑を見ると神栄赳郷さん。もしやと思ったのですが偶然とは恐ろしいものです。くわしくはまた今度にお話します。

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