設立当時のラジオ関西と朝日新聞の関係を考える(神港新聞社の設立経過などを通して)
ラジオ関西は、設立時ラジオ神戸と称し、正式社名は神戸放送株式会社であった。
神戸商工会議所を母体に神戸新聞、神港新聞が経営に参画していたことは明らかであり、このブログでも過去にいくつかの話題を提供してきた。
今回は、全国紙の朝日新聞はどのようにラジオ神戸と関係してきたかを考えてみたい。
神戸放送設立時に専務取締役を派遣していた「神港新聞社」(2007年1月26日記事)
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_7cb3.html
私の所蔵する、ラジオ神戸の開局当初のパンフレット(昭和26-27年ごろ)を改めて見てみると
この専務取締役は、神港新聞社取締役の「坪田耕吉」さんである。
そういえば、版画家の川西英先生による「神戸百景」のことを話題にしたことがあり
川西英「神戸百景」にラジオ関西(須磨時代)が(2008年11月15日 (土)記事)
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-30eb.html
この中で、このラジオ関西という版画の紹介文が版画と共に展示していたのですが、その、紹介文を書かれていたのが坪田耕吉氏。
このときは「神戸ゆかりの歌人がどのようにラジオ関西を評しているのかもぜひ知りたいものです。」と私が書いているように同一人物という認識が無かったのですが
2008年11月15日 (土)記事「川西英「神戸百景」のラジオ関西版画」
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-b879.html
では、「文章を書かれた方は前述のとおり坪田耕吉氏で、文筆家・歌人・新聞記者のイメージなのですがよくわかりません。当時の肩書きは「朝日ビルデイング取締役」とあるので別人か、それともサラリーマンと2足のワラジだったのかもと思います。」(当時というのは1960年)
ここでまた、直感が働きました 坪田耕吉氏は元々「朝日新聞」の関係者ではないかということです。
朝日ビルは朝日新聞系列の会社であることは疑いの余地はありません
http://www.asahibuilding.co.jp/company/history.html
そう考えると、「神港新聞」は、朝日新聞の系列だったことになるのですが 残念なことにWEB上では、神戸市の文書館の説明しかなく
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/shiryou/shinbun02.html
「昭和21年(1946)4月18日創刊。神戸新聞社は戦後の新興紙隆盛に目をつけ、新しく娯楽本位の夕刊紙の発刊を計画した。
しかし連合軍総司令部は同一社がふたつの新聞を発行することは認めないという意向を示したため、別会社として神港夕刊新聞社を設立し、『神港夕刊』にこぎつけた。」
・・とあり、神戸新聞のダミー会社のように書かれています。
すでに世の中に無い新聞社のことですから、私もこのWEBの内容を鵜呑みにしておりました。
私が所蔵する「兵庫・風雪20年」(昭和41年4月 兵庫新聞社発行・・これは元「神港新聞」)の記載をみてみることにする。
この本は、戦後すぐ神戸市を拡大し「特別市」にし、兵庫県から独立させ、姫路に県庁を移そうとした計画(P86「県庁を姫路へ移せ」)
など、非常に面白い本である。
この本では、「夕刊神港」が竹内重一氏によって創設されたとあり(130頁)その竹内氏は、「朝日新聞記者から、営業畑を経て戦時中は政府が作った新聞統制団体のの新聞公社に朝日から派遣された。」と明らかに夕刊神港が朝日新聞と関係があることを示している。
さらに131頁では「神港夕刊の発刊には朝日新聞がバックアップ編集、業務、工務から幹部を送り込み協力紙としたまた、全面的に地元神戸新聞も全面的に協力した。朝日出身の当時の社長、朝倉剘道、現社長田中寛次・(中略)・らが姉妹紙として支援した。朝日、神戸から優秀な人材を送り込まれた」とある。
つまり、神港新聞の実態は「朝日・神戸」であるというのだ。さらに、この時代の神戸新聞社長は歴代朝日新聞出身であるというのだ。
神戸新聞は太平洋戦争でB29による空襲で焼かれているが、「朝日新聞のご好意により・・委託印刷し、無休刊で戦災の人々に新聞を届けた」(神戸新聞社史 創立80周年 3頁 昭和53年)
この神戸新聞社史の中にある年表を改めて見てみると、昭和17年12月に原田棟一郎(朝日新聞社役員待遇)社長に就任、昭和19年9月朝倉剘道(朝日新聞社役員待遇)社長就任 (*原田社長は5月に急逝)、そして昭和24年には田中寛次専務が社長就任となっているが田中社長も、新聞人としてのスタートは「東京朝日新聞」(同13頁記事中)とあり、兵庫新聞の「兵庫風雪20年)の記載内容と同様に、朝日新聞の関係が深いということは明らかであろう。
したがって、ラジオ神戸・神戸放送初代社長の田中寛次氏(神戸新聞社長)専務が坪田耕吉氏(神港新聞取締役)という朝日新聞関係者で設立をみたことである。
<追記 2011/4/7>
坪田耕吉氏は 「朝日新聞神戸支局長、ジャワ支局長を経て名古屋総局長だった」 (「神戸風雪20年」兵庫新聞社132頁) </追記終わり>
ちなみに 神戸放送の初代会長は宮崎彦一郎氏であるが、神戸商工会議所会頭(日本商工会議所副会頭)である。
取締役には 兵庫県知事、神戸市長、兵庫県会議長、神戸市会議長、川崎重工社長、神戸工業(現在の富士通テン)社長、山陽電鉄社長、同和火災社長など当時の神戸財界関係者で構成されていた。
いかに当時のラジオ局が地元の熱意で創設されたかがわかるものである。
昭和27年当時は、もちろんテレビが普及されていない時代である。
民放ラジオも、大阪にある新日本放送(現在のMBS)、朝日放送の2社でありラジオ大阪でさえもまだ開局されていない時代のことである。
毎日・朝日という2つの大新聞社は高校野球の主催でも知られ、それは放送局との関係でも良く語られるものである。
しかし、現実には昭和16年の「一県一紙」体制は、東京や大阪という例外を除き戦時体制のなか浸透されていくのですが
兵庫県も神戸新聞が一県一紙になるが、そのトップには朝日新聞の元役員が続き、戦後もその影響があったということだ。
神戸新聞は戦前「三都合同新聞社」を設立・分離を繰り返し、その過程で生まれた京都日日新聞社などが戦時中の1県1紙制で京都新聞に統合されるなど京都新聞とは縁があるといわれる。
京都放送(JOBR)と、神戸放送(JOCR)は放送開始のキャラバンも合同で行ったり、また、関西テレビ設立には「近畿テレビ」として共同戦線を引き大阪進出をめざしたのも、これらの歴史を調べるとそれなりに当時のことが想像できるものである。
朝日新聞が関係しているのは兵庫県の県域FMである(旧)KISS-FMが有名であり、旧KISS-FMには神戸新聞グループも一時期出資していた。
ラジオ関西(設立時の神戸放送)も、設立当時は神港新聞を通じ出資、人的にも専務取締役を送りこんでいたということである。
これにより、新聞社間のトラブルも少なく、きわめて良質で進歩的な放送が提供されたということが考えられるのである。
電話リクエストやプロ野球中継を日本で最初に実施したのがラジオ関西であることもこれらの背景があったからであると思う。
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