新年企画(2)マリア・リグレステイさんと奥田博之さん
ラジオ関西が生んだ女性外国人DJの草分け的存在の方というと
奥田博之アナと電話リクエスト金曜日を担当していたマリアリグレステイさん
このブログでも、過去にも数回話題にしたことがありますので、検索も相当多くなってきました
今回も、千石岩さんから 'ラジオ関西の「電話リクエスト」の放送風景の写真' にコメントが寄せられました
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-200b.html#comment-59437509
過去の記事は2006年9月ですから、かなり前のことで
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/19_4db7.html
実は上記の写真は奥田博之アナとマリアさんだそうです。
写真提供は写真家の井川宏之先生で、お伺いしたところそうだったようです。
2008年11月には「マリア・リグレスティは1960年度花のプリンセスに選ばれた少女だった」
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/1960-d218.html
2009年4月「ラジオ関西の「電話リクエスト」の放送風景の写真」
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/index.html
少し写真が小さかったので、今回はもう少し大きくしてみます。
そして、今回別の写真を出してみたいと思います
こちらの写真は、ラジオ関西の須磨時代の本社で撮影されたもので
元の写真は井川宏之先生が撮影されたものを許可を得てトリミングしたものです
いろいろな人が写っており、以前加工を条件に掲載のお許しをいただいていたものですがタイミングを失ってしまい、今回紹介するものです。
井川先生のオフィスに伺ったとき、サンテレビに出演するマリアさんなど貴重な画像を見せていただいたことがあるのですが、時代によってかなりお顔が違うようにも思います。
この写真はラジオ関西金曜電話リクエストのスタッフの方々とともに写されたものですから1970年頃の写真と思います
1987年のKBS京都の画像が下記にあり(土曜日担当です)
http://www.youtube.com/watch?v=oI5fywJYgB8
当然1970年からですと17年後ですから・・相当変わられておられます(しかし声が違うように。上記はラジオ番組のTVーCM)
さて、このラジオ関西の局アナだった奥田博之さん。
洋楽やバラエテイ・ワイド番組に強いアナウンサーのイメージでしたが元は、野球中継の実況もこなすアナウンサーでした。
1961年のオールスターゲーム 第2戦:7月23日(甲子園球場)には
ラジオ関東系(ラジオ関西製作) 実況:奥田博之 解説:青田昇、横沢三郎とあります。
http://findwiki.info/p-916f4731460998297242196c4e356bc865b626.html
ラジオ関西50周年史には奥田博之さんが実況し横沢三郎さんと写っている写真が掲載されていますが、おそらくこのときのものだと思います。(想像)
このときのラジオ関東が現在のRFラジオ日本です。1961年当時はラジオ関東ができたての時でラジオ関西とネットしても1978年のNRN問題のようにならなかったようですが、なぜかというとNRNが出来たのは1965年であるからです。
この1965年のNRN誕生を境に、ラジオ関西はプロ野球中継をやめ、音楽局として「電話リクエスト」を1週間(月~日)午後7時からはじめるという7-7電話リクエストなどをやっているのですが、1978年のNRNの事実上の除名になったジャイアンツナイター問題の頃、奥田博之アナはフリーになったというのも因縁深いものです。
その後は読売TV制作の全国ネット「2時のワイドショー」の司会者
http://www.youtube.com/watch?v=3sl9V6ER1Jw
朝はFM大阪の朝の帯番組 JOBUポップサロン「あなた」
http://fmosaka.net/35arc/archives/2005/07/jobu.html
そして夜は サンテレビのタイガース戦のプロ野球実況中継
サンテレビボックス席
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%9C%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%B8%AD
サンテレビ開局時(1969年)にはラジオ関西の放送制作・技術陣やアナウンサー(松島武雄さんなど)約25名が出向されており
1965年にプロ野球中継撤退したラジオ関西の放送陣がサンテレビで活躍したといっても過言ではないだろう。
試合開始から試合終了まで中継するという手法はラジオ関西時代のラジオ的手法の名残りというか伝統であった。
また、ネット番組に縛られない新UHF局で、大阪にはUHF局が設けられなかったことも幸いしたのだろう。
奥田博之アナにとってはサンテレビは身内のようなものだったのだろうが、元々ラジオ関西で実況もされていたのでこのような芸当が可能だったのだろう。いずれにしても朝はFM大阪、昼はYTV、夜はサンテレビと全く違う種類の分野で活躍されたのだからすごいものです。
私が小学校の時、ラジオ関西のスタジオに見学に行き奥田さんの写真を撮り番組にメッセージと写真を送ったら、放送に採用されてご丁寧にも礼状とサインを頂いたことがある。
なぜ奥田アナがフリーになったかということは疑問のあるところです。引き抜き説や国政選挙出馬予定だったという噂も流れましたね。いずれにしてもフリーで成功された方だと思います。しかし、その基本はラジオ関西の人気アナウンサーだったということです。
もうスタジオ見学に行ったときから40年もの時間が流れた。自分ながら時の流れの速さに驚いている。
しかし、40年経過しても、当時はじめてラジオ局を見学した須磨のラジオ関西の思い出は今でも鮮明に蘇る。地元神戸のラジオ局であることを身をもって知ったときであった。
兵庫県の民間放送のラジオ局で関西TVやサンテレビ設立に貢献しながらNRNを脱退(事実上の除名)の道を選ばなくてはならなかったラジオ関西。
独立局として開局したがJFNに加盟に転じ、挙句の果て粉飾決算疑惑や経営陣もおかしくなってJFN除名・民事再生法申請・新会社兵庫エフエムでJFN再加盟し新経営陣が努力を続けられるKISS-FM。
AM局とFM局の違いはあるにせよ大都市大阪に隣接する放送局の戦略には非常に興味と地元への思いなど惹かれるものがある。
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コメント
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昭和43年2月頃だったと思います。
中学卒業後はみんなバラバラになるのですが、高取台中学の同級生3人と「マリアさんにあいたいなぁ」という話になって、夕方だったのですが発作的に「ラジオ関西にイコ」となり、4人でええいとタクシー乗って、須磨の局に押しかけました。
「マリアリグレスティさんに会いたいのですが・・・」と係の人に言いました。2分位してから、部長さんらしい人が出てこられ、会いたい旨を言いましたが、4人は「マリアは人気者で忙しいから、こんなんあかんで」と十中八九その時点であきらめていました。すると部長?さんは「良いですよ」と言ってくれ4人は互いにに顔を見てやったと。
放送室に入れて頂き、リクエストカードに思いを書いて部長?さんにお渡ししました。ガラス越しにマリアさんがいつものようにDJされていました。
4人にリクエストが終わりました。するとマリアさんが放送室から出てこられ、きてもらってありか゜とうの様な会話だったと思いますが、ラジオの声と同じ声で4人に話しかけてくれました。
帰りは4人で歩いて帰りましたが、胸中に残る貴重な感動、ラジオ関西の方々のご親切に「ええ人がおってよかったなぁ」といいながら帰りました。
投稿: 藤田日出雄 | 2012年7月 8日 (日) 07時39分
藤田日出雄様
コメントありがとうございました
なお、重複投稿となっていた部分は削除させていただきました
どうぞこれからもよろしくお願いします
投稿: 西川敏弘 | 2012年7月 8日 (日) 13時25分