1995.3のKISS-FM TIME DESIGNから
1995年2月、震災直後のKISS-FMは2月は正規放送が思うようにできず、番組表の入った小冊子TIME DESIGNも2月は発行されておられなかったと思う。
1995年3月号が、番組表としての正常化であったが、3色刷り両面(ただし番組面は緑色単色印刷)で,それまで、立派な小冊子だった紙面も4つ折りで作られたものになっていた。番組スポンサーが大きく変わり、CMスポットも変化した。
表紙の写真は、それまでと同様井川宏之先生の写真である。しかし、この1995年3月決算は厳しいものとなり、その後の減資、第三者割当増資につながっている。
注目すべきは最近の新聞・雑誌からとリスナーの新聞・雑誌への投稿が載っており、番組欄でも兵庫県文化体育館で避難所暮らしをするリスナーからも寄せられている。
震災後、しばらくは神戸新聞でもKISS-FM情報が「アンテナ」欄で取り上げられたり、ラジオ関西の震災報道番組でも、サンテレビの藤村さん、KISS-FMからシーナダスワニさんが出演されたこともある
もっともラジオ関西は本社が立ち入り禁止になり、レストインスマの駐車場のところに工事現場のような2F建ての仮設のバラックが建てられ「シェルタースタジオ」から放送されていた。
まさに野戦病院のような状況であったが、KISS-FMは建物・放送設備の被害が少なかったがスポンサーの被災・ダイエーの経営悪化などが災いした。
特に、サンテレビ専務から、KISS-FM社長となった前社長時代にはJFN加盟となり、地元経済界からの出資割合も少なくなった。
1993年からの兵庫エフエムラジオ放送社長だった小榑雅章氏はご自分のブログで、上記の番組表でも紹介されていた リスナーの手紙も紹介されています
「勇気と希望をありがとう。Kiss-FMは世界に誇るラジオ局です」
http://ipr0900.blog68.fc2.com/blog-entry-113.html
最近では「Kiss-FM Kobeよ、どこへ行くのか」
http://ipr0900.blog68.fc2.com/blog-entry-117.html
「それにしても、なぜKiss-FM Kobeが。かなしい。」と述べられています
« 産業のまち尼崎写真コンテスト・尼崎商工会議所会頭賞 | トップページ | ポートタワーは休業中 »
コメント