2023年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 三木に行ってきました | トップページ | 2日連続「山陽電鉄」の話 »

2008年11月 8日 (土)

7月21日記事の花隈駅看板の解説

Photo

この画像はこのブログの7月21日付け記事で紹介した、神戸高速鉄道「花隈駅」にある看板です。

これについて、先日ある方から「何がおかしいのかよくわからない」とメールをいただきました。そういえば反応がなかったので解説をするのを忘れておりました。

まず、現在山陽電車は阪急の乗り入れは「阪急三宮」はあるのですが、「六甲」には行っておりません。山陽の車両は短く(普通車3両編成もある)阪急の8両編成(神戸線10両編成なら三宮で2両を切り離す)とは差があるのでこのような看板があるのです。三宮で阪急の車両に乗換えすれば六甲には行けますので、この看板は「間違い」というようなレベルではありませんが、古い事情を知っている人たちには「まだこの看板があるのか」と思うような看板だからです。

現在でこそ、阪神梅田行き直通特急は別として阪急方面行きは「阪急三宮行き」が一般的な山陽電鉄ですが、以前は「阪急六甲行き」が一般的でした。阪急六甲まで乗客を運び、方向転換は、さらに先の阪急御影駅付近にあった待機用線路まで行っていました。現在では阪急三宮で乗客を降ろしてから3-4分後には姫路行きホームで乗客を乗せますから春日野道付近の線路で折り返していると思います。現在では、阪急は「新開地」行き、もしくは「高速神戸」行きの電車しかありませんが、山陽へも乗り入れしていた時代がありました。阪急、阪神とも「須磨浦公園行き」というものがあり、現在のような阪神電鉄の姫路行き直通特急というものはありませんでした。現在でも阪神特急で「須磨浦公園行き」があり、当時の待機線路で方向転換する様子が現在でも見れます。

Photo_2

(写真) 現在の須磨浦公園駅西側待機電車 

山陽電鉄は阪神へは現在の駅名でいうと「大石」までの乗り入れで「大石川」(実はそのような川の名前ではなく本当は都賀川なのですが国道電車/後の阪神バスが大石川だったので子供の私は大石川と思い込んでいました。阪神本線の大石の駅名も大石川だったかそのあたりは曖昧です)。いずれにしても同じ灘区内の駅ですが、阪急「六甲」のほうが東です。つまり、昔は山陽電鉄は、阪急の乗り入れのほうが遠くまで営業していた時代があり、その時代は阪急御影付近(東灘区)で山陽電車が折り返し地点まで走る姿が見れたのです。

なお、高度成長期時代、神戸の山陽電車を語る上で、すごいスポットがありました。神戸高速線ができてからは山陽電鉄の起点は「西代駅」ですが、それまでは兵庫駅(JR兵庫駅北)でした。その兵庫駅から長田のあたりは、道路上をあの形の電車(路面電車でなく普通の近郊用電車)が走っていたのです。ちょうど現在の滋賀県の浜大津あたりのイメージを考えていただければいいのではと思います。

Photo_3

(写真) 2008.10 大津市内で撮影

さらに、それだけでも驚きだと思うのですが、実は現在の高速長田の交差点は、当時「神戸市電」が走っており、なんと神戸市電(低圧系車両)と、高圧系車両の山陽電鉄の線路がクロス交差(?なんというのでしょうねダイヤモンドクロス?)する場所があったのです

さて、その場所を通過するときどうしていたのでしょうか?

普通に電気を流していれば確実に問題がありますからね・・

かといって 電気がなければ 電車は動かないはず・・

電車の平面交差は、阪急西宮北口にあった、神戸線と今津線のダイヤモンドクロスが有名ですが、こちらは同じ阪急電鉄どうしですから 電車の型名は違っても送電系は同じタイプでしょう。なお、現在では今津線は西宮北口―今津と西宮北口-宝塚と電車そのものが別になっており神戸線とクロスしておりません。

私は、その当時には、電車や電気の知識がなく、確かめながら乗車した経験はないのですが・・最近その話を伺う機会がありました。いったいどうのようにしていたのでしょうね(またこの話は後日)

« 三木に行ってきました | トップページ | 2日連続「山陽電鉄」の話 »

コメント

はじめまして。大昔は山電の冷房率が低く、阪急が月見山に来たら当たりでした。もっとも須磨浦公園までの命でしたけど。

moscawblue さんはじめまして。ブログも拝見しました月見山の高校に通っておられたのですね。月見山というと昔のラジオ関西の最寄駅というのが私の中で大きいのですが。お話の内容ですと須磨浦公園より西にお住まいだったのですね。その時代ですと現在のような自動改札の磁気券ではなく黄色(だったと記憶しています)の切符もしくは、駅員さんが販売する切符で、昔の山陽電車のある駅では駅名も印刷されていなく駅名入りの丸日付印を押したような値段だけ印刷されており、ちょうど当時の回数券みたいな切符を購入した記憶があり、これは私の地元(阪急岡本)と比較し驚いた記憶があります。もっともJRがまだ国鉄で硬い切符を駅員さんが切符を特殊なハサミで切っていた時代ですが。どうぞこれからもよろしくお願いいたします

ご無沙汰しております。
山陽電車のネタと聞いて、キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!って感じております。
偶然にも先週、私も私なりに山陽電車の話をしたのですが、阪急六甲駅に関する部分で、“ニコニコ動画”に六甲駅構内で起こった衝突事故の映像があります。
(http://www.nicovideo.jp/watch/sm1103822)
おそらく、この事故が原因で、山陽側の相互乗り入れ区間を短縮したのではないのでしょうか。ちなみに、阪急の須磨浦公園への乗り入れは、確か季節限定(GWか夏場)で、未だ存在してた様に記憶してますが…。

Stray Horse さんごぶさたしております
貴方のページには良く伺うのですが、山陽電車ネタを同時展開していたとは気がつきませんでした。何せ競馬ネタがあると勉強不足のもので、つい関連話題を見落としてしまいます。もっとも私の方は7月21日の記事と、山陽電車・須磨浦山上遊園のフォトコン結果発表の時期と重なっていたため記事を出すのが遅くなっていたという事情があるのですが。偶然とは恐ろしいものです。東京に行っておられたようですねたいへんパワフルですごいなあといつも思います。さて、貴重な情報ありがとうございました。ニコニコ動画のコメントにもありましたが、たしか山陽の運転士(阪急区間だが山陽の運転スタッフが運転するとりきめだったと思う)がATCをはずしていたということが原因だと思いますが(このあたりはいろいろなサイトで記事があります)、昭和59年のことですから、これが即乗り入れ解消ということになったのではないのですが結果として語ることをなくすことが出来ない事件で「これがなければ」と思うこともあります。その後乗り入れ縮小、そして撤退へとなるくわしい経過は調べ上げておりません。
ただ、阪急がメリットあるのは直系の関連鉄道「神戸電鉄」の乗換駅である「新開地」まで8両の特急を運転できればよいという感覚があったのではと私は思います。この8両というのがポイントで、須磨浦公園までいくときには三宮で連結をはずす作業をして6両にしていたと思います。現在でも通勤時間帯の特急の一部に10両編成で2両をはずし10-2=8両として新開地へ向かうダイヤがありますが、三宮の停車時間は長く、作業員も大変かつ、外した2両も運転士をつけて回送するわけでこれが大変だったのと、これがボトルネックになっていたのではと思います。そういえば阪急は新開地へ向かうより、神戸市営地下鉄山手線に乗り入れ西神中央に向かいたいということで震災で倒壊した阪急三宮駅も本格的に復興させず将来の再編を見ているのだということがどこかの報道で聞いたことがあります。(花隈はどうなるのかという心配もありますが)このあたりは一度WEBでの話題を調べたいと思います

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 7月21日記事の花隈駅看板の解説:

« 三木に行ってきました | トップページ | 2日連続「山陽電鉄」の話 »