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2008年11月22日 (土)

マリア・リグレスティは1960年度花のプリンセスに選ばれた少女だった

先日行った川西英先生の「神戸百景」展
ラジオ関西の旧社屋ばかり気になり、花のプリンセスの記事の、「マリア・リグレスティ」さんを見落としていたことを後でパンフレットを見て知りました
このことはHiroさんからもコメントがあったとおりです
しかし、良く考えるとマリア・リグレステイさんはこの本の出版のとき(1962年)に、すでにそれなりのタレント活動をされていたのでしょうか?私が実際にマリアリグレステイをはじめてきいたのが70年頃の奥田博之・マリアの電話リクエスト時代ですから、あのとき少なくともタレント10年選手ならいったい何才だったのでしょうか。
それとなぜ、私がそのような展示を見逃したのでしょうか?

マリア・リグレスティといえばこのカタカナに私が反応しないのはなぜか?。本当に疲れて病気かとも思うようなミスと自分自身で思います。ということで再度調査しました。

結論から言うと、この「花のプリンセス」の版画を見ましたが外国人女性(子供も含まれる)が花に囲まれるというもので確かに絵は見ていました。解説は「1960年度花のプリンセス Maria Ligresti(イタリア)」よく読むと確かに・・マリア・リグレスティさん。

ここで、そもそも「花のプリンセス」というものを現在の兵庫県がやっている「フラワープリンセス」というものと混同していることに気がつきました。

現在の「フラワープリンセス」は、日本人の女性で20歳代中ごろの女性で確か主婦層まで入っておられたもので版画と少しイメージが違います。(当然なのですが)

http://web.pref.hyogo.jp/press/press_ac021_00003063.html

県立フラワーセンターなどで「フラワープリンセスプリンセス撮影会」などもあるため、そのイメージが入っておりました。

この「花のプリンセス」というのは世界のあらゆる国から神戸にやってきて、そこに住んでいる若い女性から選ばれ、神戸の特別な催しに参加するものというものであることがわかりました。

すなわち花の・・というのは若いという意味に通じるもので、この制度では外国人のみを対象とするものです。

花を直接対象とするフラワーセンターのようなものではなく、神戸まつりに以前あった「クイーン神戸」の時代に確か「プリンセス神戸」というものがあり、神戸市内在住の小学生から高校生ぐらいの外国の女の子が選ばれていたことを思い出しました。おそらく、そのような性格のものだったのでしょう。プリンセス神戸の前身なのかも知れません。

 このように名前もカタカナではなく、肩書きもラジオタレントとも書いていないのです。これが私が見落とした原因と思われます。

 文章も、このような制度のためいろいろな国の人と仲良くできて、このようなことをやることで戦争をなくすようになれば良いというような「日本語がうまい外国人の学生の女の子」のものでした。

 ただ、こうした経験が「また将来、神戸市のためによろこんで仕事を手伝いたいと思います」という将来を暗示するような文章につながっており、実際に神戸市やラジオ関西とつながっていったのでしょう。

 なぜ、川西英先生の絵の紹介に、その筋の一流どころ(多くは成功された方や大御所)ばかりです。マリアは元花のプリンセスという立場で書いており、成功したラジオタレントの文章ではないのです。

マリア・リグレスティさんが、ラジオ関西の電話リクエストに出られるようになったのは1964年ごろです。

1960年に中・高校生14-5才?で「花のプリンセス」になっていたというのなら、4年後の大学生時代にDJをするのは想像できることです。

増井孝子さんなども大学時代から活動されていたようですしね。
このあたりを少し深く追求してみたいと思います

「Hot・Dog PRESS」の昭和56年(1981)12月10日号に『風の歌を聴け』 村上春樹VS大森一樹」が掲載されているようです

原作者村上春樹氏(1949年生まれ)と映画監督大森一樹氏(1952年生まれ)の対談記事が掲載されているのです
ともに神戸・阪神間で高校生活までしている。ほぼ同年代のお2人の話題であることに注目したいと思います

村上春樹氏はこのなかで「ラジオ関西ばっかり聴いてた。」と公言しています。これだけでも驚きですが
大森一樹は「白藤丈二とか」と具体的なDJの名前をを出すのですが、これに対し
「それはずいぶん後じゃない。──電リク〟でしょう? マリア・リグレスティとか。」と発言しているようだ。さらに大森監督もマリア・リグレスティを覚えているのです。

このあたりに 重要なことが隠されているのです。これはあくまで私の推測ですが村上春樹と大森一樹はほぼ同年代とはいえ3才の年齢差があるのです。
ラジオを夢中になるのを中学後半から高校時代というのが通り相場の時代であるのですが、村上氏は1964年から66年(神戸高)、大森氏は1967-1969年(六甲高)と、阪急六甲―王子公園の学校があり
芦屋市に高校時代住んでおられたり、芦屋市在住というのも、私のローカルエリアということになる
(私は東灘区本山/阪急でいうと岡本になる)

このあたりを私なりに分析すると、電話リクエストに音楽評論家の白藤丈二さんが登場したのは1967年4月の改編ごろであるはずだ。大森一樹さん高1、村上春樹さんは高校を卒業された頃である。

 マリア・リグレスティさんは、「ラジオ関西50年史」に掲載の「電話リクエスト50年略史」(P150)によれば、1964年10月の改編から金曜日に登場し、奥田博之アナウンサーと最強のコンビを組むことになる。

このコンビは1970年5月の番組終了まで続いているので9年も続いたのである。電話リクエスト終了は同年4月1日にFM大阪が開局したことが関係深いと私は思っている。

ちなみにこの時代は10KW時代。翌年1971年11月にラジオ関西は20KWになったのである。

マリア・リグレスティ・奥田博之アナは曜日こそ別になったが、後継番組「ナマナマ大放送」で、それぞれ落語家・コメデイアン相手にワイド番組のラジオタレントとし出演している。このように20KWの増力前に「黄金期の電話リクエスト」は終了しているのである。

しかし、この道を歩んでいるマリア・リグレスティは、他局、大阪・京都のラジオにも進出した。またサンテレビでも番組をもった。

外国人DJ、ラジオタレントの草分け的存在といっても過言ではないだろう。

WEBページでは 東京紅団

 http://www.tokyo-kurenaidan.com/index.htm
の 村上春樹の世界「大森一樹と神戸を歩く」で紹介されている
検索エンジンで「大森一樹と神戸を歩く」で探すほうが早いかも知れない

当時のラジオ神戸の番組欄の紹介もあり、本当に良く調べられていると思います

風の歌を聴けのラジオNEBのモデルはラジオ関西であるということを裏付ける話だと思います

白藤丈二さんは、福田一郎さんの系列の方(弟子ということも聞いたことがあるが今となっては裏づけがとれない。アシスタント的行動が多かったことは事実)で、外国人歌手・グループの日本公演になると、福田・白藤コンビが解説をするというパターンも有名であった。結構ラジオ関西に長くDJ番組をもたれており「ラジオ関西の白藤丈二」と紹介されるWEBページもいくつか見たことがあるのでいかに、電話リクエストの影響が大きいかわかる。

なお、マリアの声は、1980年ごろには聞けなくなったのであるが、ちょうど奥田博之アナの声がラジオ関西から聞こえなくなったころの少し後ぐらいかとも思う。このあたりは記憶は定かではない

その後、私が最後にマリア・リグレスティさんの声をラジオで聞いたのは震災前の平成5年ごろであろうか?

それもラジオ関西の神戸空港開港を期待する番組で、「アメリカ在住でラジオ関西にも多くの番組をもっておられたマリア・リグレスティさん」という司会の永井典子さんの紹介に驚いたことを記憶している。あの舌足らずの低音のしゃべり方はそのままで非常になつかしい思いがした。

広告代理店か化粧品メーカーかは忘れたがどこかの偉い方と結婚されて海外におられるという噂を聞いたことがあったが真偽はわからない。神戸空港で外国にはいけないので、マリアの期待には至っていないのだが。いずれにしても、また番組をきいてみたい一人です。

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コメント

阪神大震災をきっかけに、大阪の民放テレビ5社では、深夜から早朝にかけては、突発ニュースや災害報道に対応できるよう、番組休止時間でも、電波を出しっ放しにして、フィラー映像などを流すのが定着し、また読売テレビのように全曜日にわたり番組をオールナイトで放送する事も多く、電波を停波するのは年に数日程度になってます。
ところが、大阪の民放テレビ各局では、スポット広告収入の減少がきつくなっていると報じられ、深夜のスポットCM枠の売れ行きが悪くなっている印象があり、深夜放送はますます赤字を垂れ流していると思われます。他方、電波発射時の電力消費の過程で発生する二酸化酸素排出量の削減を図るため、NHK教育テレビにおいて、この秋から深夜の放送時間を削減し、放送休止中は電波を停波するようにしました。
大阪の民放テレビ各局では、スポット広告収入が減る中で、深夜の3時過ぎまで番組を放送する意味があるのかと、特に労働組合から異議が出てもおかしくないのではと思われます。
大阪の民放テレビ各局では、これから「災害対応のための電波出しっ放し」か、それとも、「省エネ、地球温暖化防止や経営効率化のための電波停波」か、本当に難しい選択を迫られる局面も予想されます。さしあたり、海外からの調達番組の削減などの編成のやりくりにより、平日の深夜は遅くとも午前2時前後か、1時30分前後で打ち切りにする事も考えられそうです。

10月12日の「ラジオ関西まつり」の記事を見て思ったのですが、
近年、一部の地方民放局では、長年定着していた自主事業の大型イベントを取りやめる傾向が強まっているようです。例えば、地方の民放局が主催するプロゴルフのトーナメントにおいては、ここ数年の間に、静岡放送、仙台放送、広島テレビ放送などが、大口協賛スポンサー企業が撤退したのを見て、スッパリと取りやめ、瀬戸内海放送も同様に今年限りで主催プロゴルフ・トーナメントの開催を打ち切るそうです。
民放各局の社員や役員、関係者の間で、長年溜まっていた「イベント疲れ」が、いわゆるバブル経済が崩壊してから一挙に噴出し、社員や労働組合サイドから、「多くの社員を全社レベルで日曜出勤させてまで、赤字確実といわれるイベントを開く意味があるのか」と異議を唱える方が結構出ているようです。
地方民放においては、プロモーターから費用を徴収する事で、民放局が金も人もかけずに楽に稼げる「名義主催」イベントに絞りたい傾向が強まっているのではと思われますが、西川さん、どう思いますか。

らぶSUNさん TV局のイベントの採算性については興味がなかったので今までこのようなことは考えたこともないのと全く知識不足ですのでよくわかりません。
ただし、ラジオまつりのようなイベントはラジオ局にとっては営業上有益だからやっているのではと思います。
このあたりは華やかなテレビ局の路線とは全く違うのではと思います。
どの事業が個別に採算がとれたかというのは公開されたかどうかも知りませんが、仮に採算が取れなくても放送局がトータルで儲かっておれば問題ないのではという気がします。問題になるのは東京のテレビ局でも2社(だったかな?)が赤字になる時代だから、不採算の事業を撤退しようとしているだけと感じました。

西川さん、プロゴルフのトーナメントの運営経費は、男子の4日間開催のツアートーナメントの場合、3億円以上かかっているそうです。東京や大阪以外の地方民放テレビ局主催の、特に男子プロゴルフのトーナメントの多くが、ここ数年チケットの販売成績が落ちつづけ、単年度で赤字に陥るケースが続出していたそうで、九州朝日放送の「KBCオーガスタ」のように、存続が危ぶまれながら、今年何とか開催にこぎつけたケースもあったようです。また中には最終日でさえ有料入場者数が4000人前後しかなかったトーナメントもあったといわれています。

らぶSunさん 情報提供ありがとうございました
「男子プロゴルフ4日間開催のツアートーナメントの場合、3億円以上」これが相場であれば、確かに超大都市圏以外では難しいのだろうと思います
しかし、このようなスポーツや芸術の世界は、地方の放送局の役割も、その世界の方々にとっては大切な場所だったと思うと複雑な思いがします
景気がよければ、このような民間でもいろいろなイベントもあるでしょうが昨今の地方公共団体がネをあげる状況ではこのような文化の火がだんだん小さくなるようで喜ばしいことではないように思います

昔懐かしい名前(マリア・リグレスティさん)に遭遇しましたのでコメント差し上げます。

> しかし、この道を歩んでいるマリア・リグレスティは、他局、大阪・京都のラジオにも進出した。またサンテレビでも番組をもった。

東京のTBSラジオでも黒澤久雄さんなんかと番組を持っておられたことがありますね。

確か1945年生まれだったと記憶しておりますので、今ではさぞかし品の良いおばあちゃんになっておられることでしょう。

おさむ@東京在住さん はじめまして
貴重な情報・コメントをいただきありがとうございました
1945年生まれというと、この花のプリンセスに選ばれたのが15歳中学3年から高校1年ということになりますから、私の推測がほぼ的中していたことになります。東京のTBSにも進出されていたのでしょうか、ということは、当時の関西タレントの「ラジオ関西
からMBS/ABCなどの大阪局そして東京のキー局進出」というルートを歩んだことになります
笑福亭鶴光、フォークルの帰ってきたヨッパライ、ばんばひろふみ 数え上げるときりはありませんが、当時のラジオ関西は「登竜門」になっていたことはほぼ間違いないと確信しました

突然マリア リグレスチィーさんの名前を思い出して調べていたらこのサイトへ。私が高校生の頃、1970年頃の大阪ラジオ番組で日曜朝の10時か10時半から心斎橋の音楽のミヤコ提供のシングルレコード売上ベスト5と米国キャッシュボックスベスト5を交互にかける番組をしてました。マリアさんの舌足らずな愛らしい声のファンでした。

kenzonaitoさん はじめまして
コメントありがとうございました
その番組は私も遠い記憶に残っています。ハーブアルバートのテーマを連想してしまいますが少し記憶があやふやです。
マリアさんは、大阪局を経て東京進出しますが、原点は神戸のラジオ関西電話リクエストでした。
過去記事を見ていただくと写真もいくつか掲載しておりますのでご覧いただければと思います
これからもどうぞよろしくお願いします

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