2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

« 神戸放送(現:ラジオ関西)本放送最初の音楽は? | トップページ | 局舎等の再現模型を製作中 »

2007年2月 6日 (火)

神戸の民間放送があった場所

(1)神戸市須磨区磯馴町7丁目3番地

(2)神戸市須磨区行幸町1丁目1番6号

(3)神戸市長田区1番町2-1

(1)はラジオ神戸時代(2)はラジオ関西の(震災前の)住所ですが、基本的に同じところである。磯馴町(いそなれちょう)7丁目というものは現在では存在しない(6丁目まで)。これは住居表示が変更になったものであろう。行幸町(みゆきちょう)1丁目の元ラジオ関西の部分が他の2・3丁目と比較すると異様な感じがします。

ラジオ神戸時代には「磯馴亭」というお笑い番組もあったようだが、これは放送局の町名からか。しかし、目の前にあった神戸市電の停留所は「衣掛町」。また、私の知る時代では、すでに放送局の郵便物宛先の表現は「神戸市須磨局区内ラジオ関西」。したがって「磯馴町」がなかなかJOCRと結びつかない。

さて、最後の長田区の住所は「サンテレビ」の開局時の本社スタジオがあった場所。ちょうど神戸市立西市民病院の隣であり、大開通りがカーブするところの南側といえばわかりやすい。市民病院の隣の放送局というのもどうかとも思うが、なぜこの場所にサンテレビができたのでしょう。できた当時は、神戸新聞の田中社長が3社の社長の時代。須磨のラジオ関西もボーリング場や駐車場を作るなら、あの場所にサンテレビのスタジオとしても不思議ではない。実際サンテレビの公式WEBでも長田時代の局舎の写真が紹介されているが、背後のビルやクレーンは、建設中の神戸西市民病院。

現在、この場所に行ってみるとそれほど大きな場所ではないことは明らかである。(少なくとも須磨のレストイン須磨・ラジオ関西ビルだった場所のほうが広い)

この写真は、神戸新聞の記念誌にも載っているものと同じである貴重な写真。なぜ、スタジオをこのような長田にしたのか、須磨の広いラジオ関西の敷地内ではなぜだめだったのか。

勿論別会社であるが、当時はラジオ関西の社員25名がサンテレビ創立に関与した時代である。疑問は深まる。そのひとつには、サンテレビは灘区の摩耶山に送信所を作ることが必要で、スタジオとは電波で安定的に中継できる場所が必要だったことも考えられる。また、このことはいろいろな角度から考えてみたい。

« 神戸放送(現:ラジオ関西)本放送最初の音楽は? | トップページ | 局舎等の再現模型を製作中 »

コメント

 こんにちは。マトリックス昭夫です。今回はサンテレビの旧社屋にまつわる記事ですね。
 サンテレビは今のポートアイランドに移ったのが私の生まれる前、もう20年以上前のことで(長田時代よりポートアイランド時代の方が長いことになるわけですね)、しかもラジオ関西と違って社史も出していないので、長田時代の写真や記事があまりに少なく、調べるのにかなり苦労します。公式サイトの写真以外では、以前、大倉山の市立図書館で見つけた『ながたの歴史』という長田区の歴史を記した本に旧社屋の写真が載っているのを見つけたことがあるくらいです。ネットで調べてみても、やはりかなり昔のことであるせいか、長田時代に言及した記事は少ないです。

 余談ですが、ラジオ関西といいサンテレビといい、どうも神戸の放送局は市内から少し離れた所に社屋を建てる傾向があったようですね(今はポートアイランドにハーバーランドと、両社とも思いっきり市内ですが)。やはり山と海に囲まれて、広い土地がなかなか取れない神戸という街の地理的なものがあったのでしょうか。

ちわ〜、地理学専門の肉体労働者っすw
さて、磯馴町から行幸町への“名称変更”なんですが、かつて昭和天皇(皇太子だった頃の現天皇だったかな?)が須磨海岸に行幸啓(ぎょうこうけい)されたのをきっかけに、磯馴町や衣掛町一帯が“行幸(みゆき)町”に変更になった様です。てのも、“行幸”というのは、皇族方の訪問を意味し、特に天皇陛下が庶民生活(須磨は漁師町なんで、漁業関係者)の見学をされる際に用いられる言葉です。一昨年の東京競馬場へ、天皇皇后両陛下が競馬観戦を行なった時も、“天皇陛下が当競馬場へ御行幸啓されました”とアナウンスされてます。

マトリックス昭夫さん。須磨や長田に放送局ができた理由はまた改めて述べたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
Stray Horseさん いつもどうもです
行幸町(みゆきちょう)の件ですが、おおむねStray Horseさんのご説明の通りなのですが、「神戸の町名」(神戸新聞社 昭和50年)P173によると「武庫離宮(須磨)での天皇の行幸の道筋から行幸町とついたようなのですが、それは昭和5年7月のことらしいのです。また「磯馴町」は昔から須磨海岸にある乱れ松を磯馴松といったところからついた町名(P157)で大正13年5月にこの町名がついたようです。なお、行幸町、磯馴町、衣掛町は現存しますので、ラジオ関西の部分がスポット的に町名変更になったのではと思います。なお、高度成長期には天皇陛下も植樹祭などで来神され、特別番組を作り宮内庁に録音テープを献上したという話もあるようですので、このあたりと関係があるのかもしれません。
ただし、須磨の離宮への行幸であれば「離宮道」(旧ラジオ関西から西へ1つ市電の停留所の名称にあった)ではと不思議に思っています

 こんにちは。毎度毎度質問ばかりで恐縮なのですが、記事の中にある
>神戸新聞の記念誌
について、タイトルなど詳しく教えて頂けないでしょうか?
 近所の図書館に神戸新聞の『100年史』と『70年史』が置いてあったので、一通り目を通してみたのですが、どちらにも載っていなかったもので(『70年史』の方はサンテレビ開局前の1968年に出された本なので、当然かも知れませんが)…。
 いつもお手数ばかりおかけしていますが、何卒よろしくお願いします。

マトリックス昭夫さん。ご質問の件ですが
私が所有するものは今のところ80年史と90年史の2冊のみで後は図書館に頼っております。サンテレビの長田時代の写真は80年史の14ページに掲載されておりますが「グループと厚生施設」というところですが見事に、この写真はサンテレビの公式WEBのと同じだと思います。
80年史の正式な名称は「神戸新聞社史 創刊80周年 発展への歩み十年」昭和53年2月11日発行(非売品)神戸新聞社史編纂委員会 発行神戸新聞社 整理編集 神戸新聞出版センター です。
私は、以前から古本屋などで、記念誌やパンフレットなども集めておりまして兵庫や神戸がらみの書籍は気にかけておりますので、これらは見つけると思わず購入してしまいました。神戸新聞のは良く売られているのですがラジオ関西のはなかなか見れません。サンテレビの社史は存在しているのかもわからないのですが

 教えて頂き誠にありがとうございました。
 ラジオ関西の『50年史』は、以前明石の県立図書館で見たことがあるのですが、大倉山の神戸市立図書館には、私が行った時には何故か置いてありませんでしたね(恐らくご存じのことと思いますが…)。
 サンテレビの方は、県立・市立共に検索してみても出てこなかったので、もしかすると社史自体を発行していないのかも知れません。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/189817/13806114

この記事へのトラックバック一覧です: 神戸の民間放送があった場所:

« 神戸放送(現:ラジオ関西)本放送最初の音楽は? | トップページ | 局舎等の再現模型を製作中 »