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2007年1月28日 (日)

神戸放送(現:ラジオ関西)本放送最初の音楽は?

ラジオ関西の前身である「ラジオ神戸(JOCR)」が開局し、本放送を開始したのは1952年4月1日。周波数1490KC 神戸須磨から1KWの電波であった。ラジオ関西50年史37ページには当時の様子を次のように記載している。「午前6時57分、ラジオからロッシーニ作曲・交響楽「ガザラドラ序曲」のメロディが流れ、7時の時報に続いて皆川儀太郎アナウンサーが「JOCR、JOCRこちらはラジオ神戸であります。昭和27年4月1日火曜日午前7時、ただいまから初放送を行います」と開局第一声を電波に乗せた。この後「君が代」演奏に続いて、田中寛次社長が(中略)という開局の挨拶をした。と記載されている。

JOCRというコールサインは、民間放送はJOAR(名古屋)、JOBR(京都)というように並ぶが、このことから単純にJOCRは日本3番目の開局という意味ではない。開局順位は10番目である。放送局は無線局であり、放送法のほか電波法令の規定が適用される。電波法令では、開局申請について、おおざっぱにいうと(1)開局申請書類提出で書類審査。周波数の割り当てが可能か、申請者の財政状況までも審査(2)予備免許が与えられ、周波数、空中線電力などが指定される。このとき呼出符号(コールサイン)も指定される。(3)予備免許された周波数・空中線電力で局舎・放送設備(送信機・アンテナ)を用意。指定された「工事落成の期限」までに電波を出せるようにしておかなければならない。(4)無線局(無線局の種類:放送局)の、「工事落成検査」を受ける。電力のオーバーパワーは勿論。電波の質を検査され、合格したものに「本免許」が与えられる。神戸放送は1952年3月に本免許を受けている(5)そして、サービス放送(試験放送)を経て本放送になるのだが、神戸放送の場合、「3月30日社屋竣工式と開局式を須磨の本社で行い、同日夜、新開地の松竹劇場でトニー谷の司会による前夜祭が行われ、その模様は収録され、翌3月31日のサービス放送の中で放送された」(ラジオ関西50年史36頁)という。

このように、予備免許の段階で「コールサイン」は指定されるのであるが、予備免許を受けたのが3番目かというと、実は民間放送ラジオの第一次予備免許は16局が同一日に受けており(昭和26年4月21日)「この16局は、日本で最初に免許を受けた」ともいえるのである。(この16局が日本民間放送連盟を設立しており、神戸放送は設立時会員である)

それでは、免許申請が早かったから3番目のCRになったかというと、そうでもないようだ。たとえば朝日放送などは昭和24年12月に申請しており、昭和25年9月には70社が申請しているようだ。(昭和25年12月29日神戸放送が申請書を再提出しているようだ。)このことからも、免許予定地区のうち、申請が殺到し、調整を必要とした「東京・大阪」を後回しにして「予備免許を決裁した」のではないかと私は想像している。そして、東京・大阪が調整できた時点で一斉に第一期予備免許を発行したのではと思う。

根拠はAR 名古屋:BR 京都:CR 神戸:(JODR 姫路を1次予備免許時保留・後日予備免許は与えられたが工事落成できず本免許与えられず)

ER 広島 FR:九州(福岡)というように第一期予備免許時点では、東京・大阪という大都市を除き、ある程度地理的な規則が見れるからである。

なお、神戸と広島が1KWで京都放送は0.5KW(500W)。福井放送0.05KW(50W)という時代であり、神戸の1KWが低電力という訳ではない。なお、予備免許を与えるということは、放送設備を完成させて電波法に合致する電波の質という技術的基準をクリアすれば免許されるということである。このことからも、当時には「県域放送」という概念はなく、姫路市営放送には予備免許まで与えられたということは特筆すべきことであり、また、予備免許は与えられなかったが兵庫県下では「西宮市」が市営放送を計画して開局申請もしていたようである。神戸放送の開局の時代には「姫路」や「西宮」と競うという事情があったことも明らかにしておきたいと思う。

なお、このあたりはインターネットでもさまざまな情報が流れている。何をもって開局というのかは難しい問題であるが、これを読んだ貴方も「ガザラドラ序曲」か「君が代」がラジオ神戸の本放送最初の音楽かは判断に迷うのではないかと思います。さらにインターネットを検索すればそれ以外の音楽であるという情報もいくつかあるようです。それぞれの根拠や引用先を示されるとそれなりの理由はあると思います。(たとえば試験放送も含め最初の音楽なのかも知れません。このあたりは非常に興味深いところです)

2007年1月26日 (金)

神戸放送設立時専務に取締役を派遣していた「神港新聞社」

戦後、ラジオ関西の前身である「神戸放送」を設立したのは、兵庫県・神戸市・神戸商工会議所・神戸新聞などであるが、そこには「神港新聞」も重要な役割を果たしていた

そもそも「神港新聞」とは何者か・・
神戸市文書館WEB「神戸の新聞」によると
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/shiryou/shinbun02.html

「昭和21年(1946)4月18日創刊。神戸新聞社は戦後の新興紙隆盛に目をつけ、新しく娯楽本位の夕刊紙の発刊を計画した。しかし連合軍総司令部は同一社がふたつの新聞を発行することは認めないという意向を示したため、別会社として神港夕刊新聞社を設立し、『神港夕刊』にこぎつけた。
 創刊号の編集発行人は久保田喜一。設備、労務、編集、販売などに神戸新聞社が全面的に協力した。」とある
 神戸新聞90年史P3-4によると 別会社組織による僚誌「神港夕刊」の発行(昭和21年4月)、「関西貿易経済新聞」「デイリースポーツ」の創刊、さらに単独夕刊「夕刊神戸」の発行・・とあり、これらは新聞界における先駆的な取り組みだったという
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E5%88%8A

 戦後に入って夕刊は復活したが、当時は製紙事情が充分ではなかったことなどから政府当局からの指導で全国紙の増ページが認められなかったことを逆手に取り、その分夕刊専売の新聞を続々と創刊させた。
 神戸新聞系の神港新聞などがそれぞれ独立し、元来の親新聞と競合関係になる。と書かれている
 神港新聞は昭和25年(1950)3月1日から、夕刊のほかに朝刊を発行した。さらに同年『スポーツ・アンド・スクリーン』『オールスポーツ』を発刊「オール・スポーツ」は日刊スポーツのルーツになるようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%88%8A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84
 ラジオ神戸開局時の「神港新聞」は神戸新聞からの独立後の全盛期だったようだ。
 このことは久坂葉子生誕75年記念出版 神戸新聞の記事でも神港新聞が登場していることなども参考になる。
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/cul/353.html
 しかし神港新聞は現在存在しない。昭和30年12月のラジオ関西第2次増資時点での神戸新聞の所有株数は2600株1.2%(ラジオ関西50年史171頁)、その後増資を重ねるなかで神戸新聞の割合は高まるのであるが、神戸放送(ラジオ関西)の初代社長は当時の神戸新聞の田中寛次社長が兼任、田中氏は、関西テレビの副社長、サンテレビの社長も兼務した放送界の偉人としても名高いが、当時の神戸放送の専務は神港新聞社取締役であり、神港新聞社社長も、神戸放送の取締役に名を連ねているのである
 

2007年1月21日 (日)

1970年代のラジオ関西のオープニング

1970年代のラジオ関西のオープニングといえば

「JOCR JOCR ラジオ関西 ダイヤルは左端 伸びの良いクリアーな波」という 加藤逸子アナウンサーの声と、当時からもオープニングや放送終了でしか聞くことのできなかった「JOCR(繰り返し)ラララJOCR(名称不明)」という音楽が特徴でした。このオープニングについては今までもいろいろと質問があったのですが、その際には下記のURLをお教えすることにしておりました。(実際に当時のラジオ・TV各局のオープニングやジングルを多く紹介されておられます)

懐かしのテレビラジオ録音コレクション

ラジオ放送開始/終了/ステーションコール集

 http://www.asahi-net.or.jp/~uk9o-tkzw/tvradio.html

当時の関西地方各局(FM含め)オープニングやジングルをお聞き比べいただきますと、いかにラジオ関西が音楽局としてこだわったものを作っていたかがわかります。ジングルの中には外国人による英語アナウンスオンリーのバージョンもあります。現在のFM局・AM局のものと比べても見劣りしないものも多かったと思います。

 開始 ステーションコール1 は特に貴重なものだと思います

2007年1月20日 (土)

村上春樹「風の歌を聴け」に登場する電話リクエスト

「風の歌を聴け」はラジオ関西の電話リクエストをモデルにし、それを背景にした小説であると思われる。

村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」を読んだ。
この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る
すなわち、高度成長期を舞台としたもので、東京から夏休みに、生まれ故郷の海辺の街に帰省した主人公の大学生と、馴染みのバーでの旧友との再会や、女の子との出会いを描く。
七十九年度『群像』新人文学賞を受賞した作品で、村上春樹氏は芦屋市出身
その後映画化もされ、脚本・監督には「ヒポクラテスたち」の大森一樹(芦屋市出身)

WEBを調べると、小説には神戸や芦屋という具体的地名は出てこないが、彼の出身である、神戸・阪神間を舞台としていることは明らかのようだ
http://www.hyogo-tourism.jp/tourism/bungaku/kaze.html

映画に至っては、小説より一歩踏み込んだ展開をしているようで、
「ドリーム号で神戸」で、神戸まつりの乱闘まで、映画には登場するみたいである。このことは、「神戸とシネマの一世紀」(神戸新聞総合出版センター」にもかかれており
「神戸行きドリーム号」はもうない。---このセリフは、「高度成長以後の神戸のある種の空虚をいいあてた」と同書に示されている。

映画版のあらすじはこちら
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD17129/story.html

なお、この小説では、ラジオ局・ラジオ番組が大きな役割を示す。
小説中登場する局の名前は「ラジオNEB」(もちろんラジオ関西がモデルと考えられる)、登場する番組は「ポップス・テレフォン・リクエスト」(ポピュラー電話リクエスト)小説中では土曜の夜7時からの番組で、電話受付は6時から、局の受付電話10台は、休む暇なく受付。おまけにこの局はプロ野球中継はしていないという。(当時のラジオ関西そのままのように思う)
この番組から、主人公に電話がかかってくる。リクエストをプレゼントした女の子がいて、DJからの電話が電波に乗るという設定である。、その後、このラジオNEBはいろいろなところに出てくる。番組の記念品が送られていたり、ラジオへの投書が読まれたりする。

この小説では、ラジオNEBが、非常に重要な役割をしめすのである。
ぜひそういう観点で、この小説をおよみいただけるといいだろう
なお、この小説の主人公の故郷は、前は海、後ろは山、隣には大きな港町がある。人口7万で金持ちも多い高級住宅地であるようだ。(隣には大きな港町=神戸市。隣の人口7万の高級住宅地=芦屋市)

登場人物の「鼠」といわれる主人公の友人も、父親が一代で財を成した金持ちという設定である。

Crkinen6_1 海岸通りに車を止め、AMラジオから電話リクエストが聞こえる。
以前わたせせいぞうさんがラジオ関西のテレカ、QSLを描いたが、その風景を連想させる。(リクエストに応え、当時のテレカ画像を追加しました)

風の歌とは、何か これは、どうやら、村上春樹ファンでも、いろいろな意見があるようだ。

ラジオ関西ファンの私が解釈すれば、風の歌とは、主人公が青春時代聞いたラジオ関西の電話リクエストの音楽ではないだろうかという気がする。
 具体的にはビーチボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」という曲になるが、このレコード音楽だけで、題名にあえて「風の歌を聴け」というのには無理があるように思う。「風の歌」は電話リクエストというラジオ番組のエピソードとともに、過去の自分の思い出があるからである。

「歌声は風にのって」という番組もラジオ関西には当時から存在する。芦屋で育ち、神戸の高校に学んだ村上春樹氏が、当時のラジオ関西の電話リクエストなどをモデルにするのは不自然ではなく、むしろそれほど影響を与えた番組であったといえるのではないだろうか。

映画化で大森一樹監督は「神戸行きドリーム号はもうない」と結んでいるが、その思いなら、私が感じるのは本文の流れから「ラジオ関西の電話リクエストはもうない」ということか

青春の思い出に決別することがこの小説の主眼なら、そのような感じにも取れる。

なお、村上春樹氏の執筆した1979年は、ラジオ関西がジャイアンツ路線をはじめたころで、映画化の1981年はポートアイランドが完成し、神戸博(ポートピア)の年、サンテレビも長田から移転し、神戸の姿が大きく変化した年であった。1970年代を終わる頃には、過去の「CR電話リクエスト」の姿はなくなっていたのである。金曜電リクの看板DJだった奥田博之アナはフリーになり、ラジ関の番組欄から名前が消え、NTV系「2時のワイドショー」の司会で全国区の人気となった。洋楽の三浦紘朗アナも朝の帯番組を担当された時代になった。ただし、ジャズタイム9(末広光夫さん)など特色ある番組も多い時代であったように思う。

なお、ラジオ関西の50周年誌には、この小説のことは述べられていないのも、不思議である。

 西川敏弘

(この記事は過去にラジオ関西ファンBBSで紹介したものですが、ブログ移行により加筆・再掲載するものです。)

2007年1月 7日 (日)

電話リクエストはなぜ消えたのか

古くからの神戸の人は「指が覚えている0123」というと引越しセンターではなくラジオ関西の電話リクエストではなかったかと思います。震災のときのラジオ関西への安否情報なども、この電話リクエストの受付電話番号も使い速攻で対応できたのも「栄光のCR電話リクエストの経験」だったのでしょう。このようなことは東京に頼りすぎる民放地方FM局では太刀打ちできないことでしょう。さて、このような栄光あったラジオ関西電話リクエストがなぜラジオ関西から消えてしまったのでしょうか?。この課題は非常にむずかしいことなのですが私は1つの説をもっています。くわしくは又機会があればお話したいとおもうのですが、実はラジオ関西の電話リクエストには大きく分けて性格の違う3期の時代があるのです。1つはラジオ時代の昭和27~35年頃(1950年代まで)。2つめは、家庭にテレビが普及していくがラジオというとAMでAMラジオで音楽番組が放送された時代(1960年代から1970年代途中まで)。そして3つ目は民放FMが出だし若者の音楽放送がFMに移り、AMは深夜放送やワイドに移行し、AMが特殊な音楽を扱う時代となったと思います。すでに私のWEBやブログを良く読んでおられる方はわかると思うのですがラジオ関西は1970年代にはサンテレビ創設にそれまでのマンパワーを分割され、他局が深夜放送の時間帯を充実させるときにも唯一のドル箱ネットの「大学受験講座」を放送し、それで放送終了(1時ごろ)という形にならざるを得なかったのでしょう。
実際、当時の「ヒットでヒットバチョンといこう(OBC)や「ヤングタウン(MBS}」と出演者層が良く似たラジオ関西「ナマナマ大放送」をプロ野球時間帯に放送したのも諸事情がからまったものとはいえ、他局が深夜放送帯の番組で出す出演者(吾妻ひなこさんはバチョン。鶴光はMBSヤンタン)をラジオ関西は違った形で音楽一辺倒からの移行を試みた・・ということになるのではないかと思います。
ちなみに、当時のラジオ関西の財政力は豊富で、商業ビルのレストイン須磨(須磨ボウルなど)などを建設(ラジオ関西ビルとなっていた)事業の多角化も図るほか、サンテレビ等いくつかの企業にも出資されていたように現在の姿とはかなり違う状態だったと思います。

最近、電話リクエストに関する書き込みをいただいたり、http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_cfb5.html

メールもいくつかいただきました。

皆さんもなぜラジオ関西は栄光の電話リクエストをやめることになったのかをご存知の方はお教えいただければと思います

少なくとも(70年代当初の時点では)、番組の聴取率が不振となったわけではないと思うのですが。実際FM大阪ができた年に、「7-7」電話リクエストから「ナマナマ大放送」になるのですが「若いおとなエンジョイヤング」を経てまた70年代後半には「電話リクエスト」が復活します。こちらは、森山かずみさん、三浦紘明さんなど局アナが中心で大阪との2元というスタイルも踏襲するのですが「7-7時代(60年代・高度成長期)とは違った」電話リクエストになります。なぜ一旦はやめた電リクを復活したか?それは当時のFM大阪をはじめとするFM番組は、現在と違い一般書店で販売されるFM放送番組表雑誌(FMレコパル等いくつか出版されていた!)に、放送される音楽まで公表されていた時代であり、現在のようなリクエスト番組は皆無でした。というのも、当時はFM放送を録音するエアチェックというのが今以上に大事なことだったように思うのです。つまり、その意味では、FM大阪が開局したからといって、その年の5月に看板番組の電話リクエストを終了するのはその必要が無かったのかも知れないのです。しかし、当時のラジオ関西はそれだけの苦悩の選択をしたということなのでしょう。

いずれにしても、FM大阪の開局は音楽局のラジオ関西にとっては脅威であったはずで、同じことは兵庫FMの開局でも同様だったはずです。(しかし、現在では地域のコミュニテイFMとラジオ関西は連携し共存共栄を図る時代のようです。)このように、現在のものさしでは測ることの出来ない価値観・時代背景があるようです。

2007年1月 3日 (水)

名称変更のお知らせ

このブログは従来、JF3MXUブログとして運用しておりましたが、いろいろな分野の話題を扱う予定が、もともと私の制作WEBページの関係から

、(1)神戸・ラジオ関西(含むサンテレビがらみ)のもの、ラジオ技術・番組等の歴史関係の話題、高度成長期がらみの話題

 (2)工業教育・資格試験・生涯教育、放送大学大学院のこと・私の研究がらみのこと、教員免許のことなどの話題

と、大きく分けて2分野になり、これらはお互い興味あるひとには良いのですが、異様な感じもするとの指摘は従来から受けておりましたので、2007年を迎えたのを機会に、これらを分離し、本ココログのブログは(1)に関するものに特化し、(2)に関することは別ブログに移行することにしました。

http://blog.zaq.ne.jp/kobe/

なお、移行先のブログのURLと、ラジオ関西ファンWEBについては記事の左側のエリア(いちばん下)に常に表示するようにしております。

ただし、すでに投稿している従来の記事はそのままとし、削除はいたしません。

また、近況報告などについては重複投稿することもあり、また、記事の内容によっては両方に掲載することもありえます。

このように、本ブログを

高度成長期マニアックス

ラジオ関西ファンのブログ

とします。サブタイトルのキャッチフレーズは

としました

どうぞこれからもよろしくお願いします

さくらのブロラジに西村博之氏が出演

ラジオ関西の番組1/3午前1時~「さくらのブロラジ」に

あの匿名掲示板(2ちゃんねる)の管理人である西村博之氏がゲスト出演されていました。

番組ブログは下記

http://blog.sblo.jp/

私は、はじめてひろゆき氏のラジオ出演番組を聞いたことになります

2007年1月 1日 (月)

新年おめでとうございます

 新年あけましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いします。

私の方は、大晦日は、掃除や書類整理をしながら、ラジオ関西をつけっぱなしにした越年になりました。(この入力の最中に放送終了のアナウンスが流れました)

近況としては、年末に科目等履修生として「国語科教育法」を学んでいた大学通信教育から通知を受け、無事免許申請に必要な単位取得ができました。

これで、2006年に単位が揃った教員免許(申請可能)は、「数学(中・高)」に続き「国語(高校)」の2科目・3種類になりました。もちろん以前から数年かけて少しずつ揃えたものであり、これで、従来の、工業・商業・地歴・公民・情報(以上すべて高校専修)、養護・司書教諭も入れると相当教えることができる範囲は広まったような気がします。

(国・社(地歴・公民)・数という普通教科も揃うようになり、残る難問は理科・英語・・さすがに体育・音楽はあきらめていますが

昨年は、社会教育関係で学芸員の資格(理科系で取得)も認定試験により取得。今後はもう少し大物を狙いたいと思います。

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