井川宏之先生から珍しい写真を提供いただきました
井川宏之先生からJOCR関係のめずらしい写真を提供いただきましたのでご紹介させていただきましょう
まず、最初の写真は、クリックして拡大していただかないと良くわからないと思いますが、初代さんちかサテライトスタジオのもので、大きな張り紙がしてあるのですが「サンテレビが開局した年の、人手不足になった時の5月の張り紙です。」(井川先生)なるほど、当時のラジオ関西労働組合はここまでやっていたのですね。サンテレビ開局がラジオ関西に与えた影響(大量出向)は、CRの送信所の自動化省力化などがいわれておりますが、私はCRの深夜放送への進出が出遅れてしまった一因と睨んでいるのですが如何でしょうか。全国的な深夜放送ブームに「日本初の電リク・野球中継」を実現した局がブームに遅れをとるにはそれなりの理由があったと考えるからです。
2点目はラジオ神戸時代の昭和30年初期の公開放送の風景写真です。
「場所が最初は分かりませんでしたが、講堂の紋章が、神戸市立有馬小学校の物だと分かりました。」(井川先生)ということです。ラジオ全盛時代の公開録音なのでしょうけど大手スポンサーがついていたこともわかりますね。
ラジオ関西ファンのトップページの写真にも以前からお世話になっております。しかし、アマチュア時代というよりかなりお若いときからいろいろな写真を撮られているとは思っていましたが、今回のサテスタの張り紙の写真には驚かされました。プロで成功される方は、若いときからでも鋭い視線でいろいろなことをやっておられたのだなあと改めて思います。
« 多くの方々からのコメント書き込みに感謝 | トップページ | 1970年FM大阪開局直前の電リク受付風景 »
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
>サンテレビ開局がラジオ関西に与えた影響(大量出向)は、CRの送信所の自動化省力化などがいわれておりますが、私はCRの深夜放送への進出が出遅れてしまった一因と睨んでいるのですが如何でしょうか。
確かに、人員不足も深夜番組“不在”の一因ではあるでしょうが、もっと考えるべきは、ブームに乗ってしまう事で生じる“人件費”が、この当時でも賄えるだけの資金がなかったと考える事も、できなくはないでしょうか?まして、後にNRNから“強制脱退”という憂き目から考えると、全国ネットに依存している他地方局に比べ、賢明な考えだったとしか、私には思えないんですが…。
なんせ、ライバルである大阪の2局でも、当時は深夜帯を“自社制作”で行なったのはABCだけですし、最近になってMBSも、TBSとモメた末に“自社制作”に切り換えたぐらいです。しかし大概の地方局は、NRNから“オールナイトニッポン”シリーズか“走れ歌謡曲”併用の道か、JRN=TBSからのネット(当時だと“歌うヘッドライト”だったかな?現在だと“ストリーム”→“モーニングコール”)かの選択で賄ってるのが現状ですから、オリジナルでとなると、失礼ながら地方の“弱小放送局”には、その制作コストが掛かり過ぎると思います。
投稿: Stray Horse | 2006年11月27日 (月) 23時12分
Stray Horseさん。
いつもどうもありがとうございます。
ご指摘のことは改めて検討してみたいと思いますが、私の感覚ではこの当時のラジオ関西は、現在のラジオ関西とは違ったきわめて良好な環境にあったと思います。
経営環境が悪化したのは、オイルショック後であると社史で読みましたが、現在のラジオ局、特にFM局なんかの番組制作体制よりNHKや準キー局のテレビ局を意識し比較したものだと思います。特に、経営陣というのは神戸新聞の田中社長が兼務していた時代であり、田中社長は関西TVの副社長もされていたのが、サンテレビ開局によりこちらに経営資源を移していた最中ではないかと思います。神戸新聞側としてはテレビの成功が悲願であり、ラジオ関西の人的資源をサンテレビに活用しようとしたのは当然でしょうが、その規模は大きく当時としては影響が大きかったのではと思います。
投稿: 西川敏弘 | 2006年11月29日 (水) 00時31分