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2006年11月29日 (水)

1970年FM大阪開局直前の電リク受付風景

19702202kan_1 この写真も、井川宏之先生からいただきました。

「この写真は、ラジオ関西のデンリク本番前の社内の写真です」(井川先生)、黒板にはコンピュータ講習、FM大阪を意識したようなこと、コーラのビンも当時の様子が伺えます。撮影は、1970年2月20日ということですが、このような写真をラジオ関西で撮影できる井川先生はそれなりの立場だったのでしょうね。(ほかにもマリアレグレステイさんの写真などもありますが)
このあいだの神戸新聞の「ノスタル爺」さんもびっくりの写真ですが、私には重複して映ります。なお、「ノスタル爺」さんというのは神戸新聞の写真部長だった方のようですね。単行本も出版されたようですので早速書店で探そうと思っています。

なお、「個人の肖像権のためモザイクにしました。」とのこと。ご理解ください。

2006年11月27日 (月)

井川宏之先生から珍しい写真を提供いただきました

Photo_18 井川宏之先生からJOCR関係のめずらしい写真を提供いただきましたのでご紹介させていただきましょう

まず、最初の写真は、クリックして拡大していただかないと良くわからないと思いますが、初代さんちかサテライトスタジオのもので、大きな張り紙がしてあるのですが「サンテレビが開局した年の、人手不足になった時の5月の張り紙です。」(井川先生)なるほど、当時のラジオ関西労働組合はここまでやっていたのですね。サンテレビ開局がラジオ関西に与えた影響(大量出向)は、CRの送信所の自動化省力化などがいわれておりますが、私はCRの深夜放送への進出が出遅れてしまった一因と睨んでいるのですが如何でしょうか。全国的な深夜放送ブームに「日本初の電リク・野球中継」を実現した局がブームに遅れをとるにはそれなりの理由があったと考えるからです。

2点目はラジオ神戸時代の昭和30年初期の公開放送の風景写真です。
「場所が最初は分かりませんでしたが、講堂の紋章が、神戸市立有馬小学校の物だと分かりました。」(井川先生)ということです。ラジオ全盛時代の公開録音なのでしょうけど大手スポンサーがついていたこともわかりますね。
Photo_19 井川宏之先生は、「神戸」にこだわったプロのカメラマン(というより写真家のほうがいいのかもしれませんが・・一度お名前で検索されると、その凄さがわかります。)
ラジオ関西ファンのトップページの写真にも以前からお世話になっております。しかし、アマチュア時代というよりかなりお若いときからいろいろな写真を撮られているとは思っていましたが、今回のサテスタの張り紙の写真には驚かされました。プロで成功される方は、若いときからでも鋭い視線でいろいろなことをやっておられたのだなあと改めて思います。

2006年11月12日 (日)

多くの方々からのコメント書き込みに感謝

このところ多くの方々から、コメントをいただき感謝しております。

BBSは、中止をしておりますがブログである程度のコミュニケーションや、情報発信は可能で、どちらかというと検索ではBBSでは不利なことがありのではと思うようになりました。このブログでの新しい記事はある程度時期がたちますと、まとめてWEB制作・更新というように考えております。どうぞよろしくお願いします。

高校駅伝はサンテレビと共同制作

すでに、ここ3年ばかり同じ傾向なのですが、高校駅伝の兵庫大会の中継が、ラジオ関西(生中継)とサンテレビ(録画)により、同じ実況メンバー(アナウンサー・解説とも)で行われています。

以前は、ラジオ関西がアナウンサーをフル動員して実況していましたが、スポーツアナだけでなく、演歌アナの矢野泰三さん、吉田秀子さんや岩崎和夫さんなども中継陣に入っておられ、まさに総力戦ともいえる立派な中継をされておられました。しかし、この3年あまりはラジオ関西から、スポーツアナの林真一郎さんがサンテレビ中継陣に加わるような形で、かつ、競合を避けるためか生中継はラジオ、テレビは録画編集したものが放送されています。番組では「ラジオ関西のアナウンサー」として紹介されており、また、実況放送スタイルはラジオの中継そのものがテレビには画面と一緒に伝えられています。本年度の場合は、男子の中継をCRの林アナが、そして女子の実況がサンテレビの谷口アナが担当されていました。新聞の番組欄には、サンテレビの方には実況中継アナウンサーの名前まで入っていましたが、ラジオ関西の方は新聞には実況中継アナウンサーの記載はありませんでした。これは、番組表自体の大きさがラジオは小さすぎるためであり、知らない人が見ると、林アナウンサーがサンテレビに移籍したか、フリーになったのかと思われそうな感じかなあとも思いました。

テレビ画像で見ると、ゴールのアーチには、神戸新聞とともにサンテレビ、ラジオ関西の文字が大きく書かれていました。

兵庫を制するものは全国を制すともいわれるこの大会、兵庫県の代表を決めるだけとはいえ注目されているようですね。

三上アナは報道制作部長

本日(11/12)の神戸新聞29面の広告にあった「伊能忠敬-子午線の夢-」のイベント広告「神戸新聞 みちのお話と映画上映会の司会は田中さなえ・三上公也アナというラジオ関西が後援する企画が紹介されています。神戸新聞主催で国土交通省が主催のものでラジオ関西が後援するのも不思議はありません。田中さなえさんは「ラジオ関西パーソナリテイ」、三上公也アナウンサーの肩書きは「ラジオ関西報道制作部長」・・知らなかったですね。報道制作部長自ら朝の帯番組を担当されていることになります。今までCRの放送制作部長の方はアナウンサー出身でも、一度アナウンサーから外れプロデューサーなどスタッフというより番組責任者になられていたようですが、今回の例では実際に出演され、さらに番組の責任者ということなのでしょうね。昇格はいつだったのかは知らないのですが1ファンとして喜ばしいことと思っています。

2006年11月10日 (金)

海のみえる放送局考

以前ラジオ関西ファンBBSに書いた内容ですが閉鎖のためブログで改めて紹介したいと思う
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なぜ 海のみえる放送局なのだろう
ぼやき漫才の人生師匠ではないが、少しこだわってみよう
「海がみえる放送局」なら 確かに日本語としてはよくわかる。しかしこれでは 見えている場所がよいという感じになる。同様な理由で「海からみえる放送局」も 何かが違う。
単に、海との放送局の位置関係をいっているのではない
海の・・とくると 海の中 海の上 というように その放送局が海と一体化したような響きになる
「海のみえる」というのは、本当に「見える」ということなのだろうか「観得る」や「視得る」なのかもしれない。ふとそんな気もした。しかしそれは考えすぎなのかもしれないが、正確にはこの曲のタイトルは「海のみえる放送局」である(ひらがな表記)。
そういえば、ボサノバ カサノバの曲は「海の見える放送局」という違いがあったのに、私自身も使い分けていないことに気がついた。近いうちWEBも訂正しなければと思う今日このごろである。チューインガムのジングルも復活。しかし、チューインガムを知らない世代は、あの曲が誰かのリバイバルと思い込んだり、新鮮な新曲と思い込んでいる。
いつまでも色褪せない 鮮やかなメロデイ とはこのような曲をいうのだろうと思う
「海のみえる放送局」この日本語的にも不思議なフレーズが、人々に抵抗無く受け入れられるのは「位置関係」だけでなく「若さ」や「ときめき」などが重要なキーワードになり、「ささやき」には優しさが感じられ、これらが「みえる」放送局なんだろうと私は勝手に解釈している
最近良くある質問です
1.最近新しくなったジングルは何か
これは、この掲示板でも言っていますようチューインガムの「海のみえる放送局」の再復活です
2.「白い砂がこぼれてる スタジオの中デスクジョッキー」の意味
これは2番の歌詞ですね
この意味を理解するには、次の説明が必要ですね
1)この歌が作られた当時は ラジオ関西は神戸の須磨海岸にあった。震災で社屋全壊となりハーバーランドに移転した

2)須磨は、有名な海水浴場であり、出演者・DJも海で泳いでからスタジオ入りすることがあった。したがって「スタジオの中に白い砂がこぼれている」という表現になったのではないか 少なくても砂がこぼれているから汚いという意味ではなく、その若いスタイルの表現であろう

3)チューインガムの1972年発売の中には、歌の解説に「関西にある小さなラジオ局。須磨の海岸がすぐ近くで、夏には、放送局の人たちも昼休みには泳ぎにいくそうです」という記載もある

4)当時のラジオ関西は、制作部門・アナウンサーの人数も多く 「若い人」の放送局であった。朝の浪曲のような古典的な放送より、ジャズやフォークの似合う放送局で、事実そのようなプロの音楽の実力のある若者がスタッフに採用されている。地方局としては珍しく自前の番組比率が非常に高く、関西の広域放送局と互角の勝負をしていた。CMも関西全般で一部岡山方面のCMも多かったが神戸・須磨を全面に押し出していた
5)しかし、チューインガムの歌にあるような「汽笛の音」がマイクに通るような防音設備のない放送局の姿ではなく、この1972年では木造社屋は取り壊され、すでに鉄筋コンクリートの近代的な放送局になっていた。
 電話リクエストには、電話受付の様子の音が入っていたが、これは効果音としてわざと使っていたと思われる
 阪神淡路大震災のときでは、スタジオの防音ガラスが壊れ、スタッフの声などが入っていたがこれは特殊事情(非常事態)だからだろう。(このときなら汽笛は聞こえたのかもしれないが)
 ということで、あの「海の見える放送局」の歌詞は、すごくイメージ的なものであるといえます
 なお、「波のように繰り返すコールサイン」は、当時のラジオ関西は、「7時の時報です JOCR」というように、コールサインを頻繁的に流していました。
 また、オープニングもJOCR JOCR ラジオ関西 ダイヤルは左端 伸びの良いクリアーな波」という、実に専門用語を駆使した放送をしていました。現在は指向性アンテナによる20KWという一般に近い日本語を使っていますが、以前はD20KWをフル英語のデイレクショナルクインテイ(クオルテイ?)20キロワットのように表現していました。まあもっともそれが 子供の私には不思議なものほど格好良く聞こえたものでした

2006年11月 5日 (日)

ポールモーリア氏が死去

今朝、神戸新聞を見て驚いた。昨晩このブログで、ポールモーリアの「恋はみずいろ」を具体例として書いていたが勿論そのときには訃報のことは何も知らなかった。ラジオ関西の電話リクエストやFM大阪が開局直後の当時といえばビートルズの全盛時代は過ぎたものの人気は衰えず、またカーペンターズ、ベンチャーズなども多くのヒットがあった時代である。

神戸新聞では、フランス公共ラジオによるものとしてポール・モーリア氏が3日、仏南部のペルピニャンで死去したことを伝え「イージーリスニングの代表格」と紹介している。私がはじめてポールモーリアを知ったのはやはりラジオ関西の音楽番組であった。

小学生時代の私は、当時はテレビ視聴を中心にしていたが、テレビは歌手が出演する豪華なものであるがラジオというとレコードをかけるだけで非常に安上がりな放送であると思っていたが、テレビは歌謡曲中心でありポピュラーなど洋楽は放送されないのが普通であった。レコードをかけて画像はイメージ風景というのさえなかったように思う。また、今のようなプロモーションビデオが配信されることもない。ポールモーリアなどは、有名な歌手のヒット曲を自分のアレンジで演奏するというのが多く「恋はみずいろ」も、実は女性歌手のビッキー(だったと思う)のヒット曲からであった。カラオケや歌のない歌謡曲と違うのは独特の編曲、ストリングスの多用という手法で原曲以上の魅力を生み出していたと思う。

「イージーリスニング」が今以上に流行したのは、当時のオーデイオブームと、アナログ技術の頂点があったように思う。たとえば今では懐かしい4CHステレオ(アナログレコード)にはポールモーリアなどのサウンドが似合った。木製家具調の大型ステレオには、FMチューナーがつくのは比較的後期でありAMチューナーのみというものも多かったのである。

(注)4チャンネルレコードの方式はCD-4、SQシステム、UD-4などもあったようだ。4チャンネルレコードは1970年代の技術であり、4チャンネルレコード化されたのはクラシックなど演奏ものが多く、それも売れる見込みのあるものだけだったのではないかと思われる。

テープデッキなど音響機器の価格は今から思うと高価であった。しかもチューナーやテープより、アナログレコードの音が非常に良かったので、AMラジオでの音楽番組を聴き、気に入ったレコードを買い高音質を楽しむという「AMラジオとレコードの共生ができた時代」だったと思う。ラジオ関西の電話リクエストからフォーククルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」が生まれたのもAMラジオ音楽番組の力であった。そのような中でポールモーリアなどの洋楽も当初テレビやFMではなくAMラジオから紹介され、高音質のレコードの購入意欲につながったのである。4チャンネルステレオレコード時代に忘れられないポールモーリアサウンド。氏のご冥福をお祈りします。

神戸新聞でラジオ関西の電話リクエストの記事が

11月4日(土)神戸新聞朝刊23面(地域ニュース)に、ラジオ関西の「電話リクエスト」についての記事がありました。

青空主義「ノスタル爺の懐かし写真館」に電話リクエストの全盛期である1964年(昭和39年)の電話リクエストの受付風景が掲載されています。

場所は須磨のラジオ関西ですが旧社屋でも2世代ほど前ではないかと思われる写真でした。黒電話(といっても後期に見られた600型ダイヤル式ではない!)が9台ほど写っており(おそらく1台は制御用か予備用)8台の電話に4人ずつ2列で向かい合った女性がボールペンでリクエストのメモを撮っておられます。会議室のように正面には黒板があり曲名がかけれていたりします。黒板の横には「77電話リクエスト」のポスターも写っている貴重なものですね。

なお77(セブンセブン)電話リクエストというのは、おそらく7時から開始するもので、7日間(1週間すべてが電話リクエスト)というものだったのではないかと思います。なお、ラジオ関西の50年史では当時の電話リクエストに関する資料も多く掲載されていますが、1日で受け付けるリクエスト電話の平均総数が書かれていますが8台の電話となると電話は当然ながらフル稼働ということになりますが、大阪支社でも電話受付がされていたのですが、大阪受付が神戸と同じ規模であり、当時の様子が伺えるものです。

なお、電話リクエストの第一次黄金期が終わるのは「FM大阪」が開局した年度、それも年度途中の5月頃に電話リクエストが土曜日のみに縮小(その土曜日担当がたしか三浦アナ)、その他の曜日は「ナマナマ大放送」という伝説のワイド番組で在阪局の「プロ野球阪神戦路線」に対抗します。

このようにFM放送が一般化されるまでの間、音楽放送もAM局が担ってきたのは事実でFM局も現在とは違った放送形態がありました。それはFM局の放送は当初「番組で流す音楽は雑誌であらかじめ公開される」もので、たとえば「恋はみずいろ・・ポールモールアグランドオーケストラ」というように曲名まで専門雑誌に載り、音楽ファンはエアチェックという放送録音を楽しんだ時代だったのです。FMではCR電話リクエストのような放送形態は当初行われなかったようでした。したがって電リク元祖のラジオ関西は70年代後半頃にも、再度「電話リクエスト」を復活します。音質での勝負ではなく電話リクエストというコンテンツに含まれた「独特のメッセージの交換」が売り物のようでした

森山かずみアナ、薗田涼子コンビはこの70年代後半の復活時のもので、「マリアリグレステイ・奥田博之アナ」というのはFM大阪開局前の時代の黄金コンビ、60年代では八木誠さんや大橋巨泉さんなど電話リクエストというとラジオ関西というのが定着していたようです。その後のラジオ関西午後7時代は「プロ野球巨人戦路線」に走るのですが、その前にはこのような「プロ野球中継以外での番組」により、大阪局と対抗していたのです。その影響で深刻な影響を受けたのが兵庫県のFM民放でしょう。大阪のFM局だけでなく兵庫のAM局と実質上競合することになりました。

電話リクエストもこの秋に一度復活したと思うと、金曜のばんばひろふみさんの番組でも11月3日に「電話リクエスト」を復活。そして今回の神戸新聞の記事です。これは「本格的復活」への一里塚と見るのは早計でしょうか。

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