ラジオ関西電話リクエストとサテスタ
左の写真は、昭和44年ごろのもので、場所はさんちかサテライトスタジオ。
番組はなんと「電話リクエスト」。当時のラジオ関西は、プロ野球中継はせず7×7(セブン・セブン)電話リクエストつまり、毎日が電話リクエストという時代でした。電話リクエストは、通常須磨の本社スタジオを中心に「大阪スタジオ」でも電話受付したり、大阪スタジオと結んで2元放送をしていたようです。また、この写真のように、さんちかサテスタでも公開放送をやることもあったようですが、この写真のようにあらかじめいくつかの曲を用意し、そのなかでリクエストを募るというやりかたのようです。(あれっ・・このやりかたは昨今のインターネットでもやっていた方式と良く似ている。)
通常の電話リクエストでは、曲の制限は無くメッセージもあわせて読まれる方式でした。「東灘の西川さんから灘区の○○さんへ・・聞いていますか?」というような感じでした。リクエストもひどいものになると「オープニングナンバーにリクエストします」という訳のわからないものまであったり、まあとにかくすごい番組でした。指が覚えている733-0123(731-4321というのもあったと思うが)六(一時期8?)台もあるといわれた電話もかからず電話すると音声合成で「ただいまラジオ関西へのお電話は繋がりにくくなっています」というメッセージもあったりして、今では信じられない(失礼)ウルトラ番組でした。なお、この写真も、井川宏之さまから提供いただいたものです。ありがとうございました。
なお、スタジオに張り出された模造紙の曲名で抹消されているのは、採用されたという意味。なお男性DJの後には番組デイレクター。当時のラジオ関西では1日に3回以上定期番組があり、サテスタの担当の制作部員の方がおられたようです。
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コメント
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はじめまして。ひょんなことから、あなた様のブログを知り、ここまで読み進めさせていただきましたが、もう、辛抱たまらず感謝のコメントを送らせていただきます。 ほんとうになつかしい! ぼくもダイヤルの電話機で毎晩のようにリクエストの電話をかけていました。いつもいつも話し中でしたから、何回も何回もダイヤルを回すことになり、指がダイヤルの穴の位置を覚えて、見ないでも電話を掛けることが出来るようになりました。なつかしいなあ。ほんとに、なつかしいなあ。芦有道路とセブンアップのCMが流れた金曜の放送が、やっぱりいちばんおもしろくて、好きでした。今の音楽番組と違って、音楽を流すだけではなくて、リスナーからのメッセージに対してさらっとオピニオンを載せてくれていた当時のDJさんたちは、ほんとうにすばらしかった! 洋楽番組とはいいながら、「さとうきび畑」葉、この番組で上條恒彦さんの歌で聞いたのが最初だったと思います。エンディングのテーマが流れるたびに、ああ、今夜も終わりかと、瞼を閉じていたことを思い出します。
いまだに真空管ラジオで左端の放送局を聞いている、50才のおっさんの思いででした。ほんとうに、ありがとうございました。
投稿: 井上あきら | 2007年1月 7日 (日) 09時49分
井上あきら様
コメントありがとうございました
これからもよろしくお願いします
古くからの神戸の人は「指が覚えている0123」というと引越しセンターではなくラジオ関西の電話リクエストではなかったかと思います。震災のときのラジオ関西への安否情報なども、この電話リクエストの受付電話番号も使い速攻で対応できたのも「栄光のCR電話リクエストの経験」だったのでしょう。このようなことは東京に頼りすぎる民放地方FM局では太刀打ちできないことでしょう。さて、このような栄光あったラジオ関西電話リクエストがなぜラジオ関西から消えてしまったのでしょうか?。この課題は非常にむずかしいことなのですが私は1つの説をもっています。くわしくは又機会があればお話したいとおもうのですが、実はラジオ関西の電話リクエストには大きく分けて性格の違う3期の時代があるのです。1つはラジオ時代の昭和27~35年頃(1950年代まで)。2つめは、家庭にテレビが普及していくがラジオというとAMでAMラジオで音楽番組が放送された時代(1960年代から1970年代途中まで)。そして3つ目は民放FMが出だし若者の音楽放送がFMに移り、AMは深夜放送やワイドに移行し、AMが特殊な音楽を扱う時代となったと思います。すでに私のWEBやブログを良く読んでおられる方はわかると思うのですがラジオ関西は1970年代にはサンテレビ創設にそれまでのマンパワーを分割され、他局が深夜放送の時間帯を充実させるときにも唯一のドル箱ネットの「大学受験講座」を放送し、それで放送終了(1時ごろ)という形にならざるを得なかったのでしょう。
実際、当時の「ヒットでヒットバチョンといこう(OBC)や「ヤングタウン(MBS}」と出演者層が良く似たラジオ関西「ナマナマ大放送」をプロ野球時間帯に放送したのも諸事情がからまったものとはいえ、他局が深夜放送帯の番組で出す出演者(吾妻ひなこさんはバチョン。鶴光はMBSヤンタン)をラジオ関西は違った形で音楽一辺倒からの移行を試みた・・ということになるのではないかと思います。
ちなみに、当時のラジオ関西の財政力は豊富で、商業ビルのレストイン須磨(須磨ボウルなど)などを建設(ラジオ関西ビルとなっていた)事業の多角化も図るほか、サンテレビ等いくつかの企業にも出資されていたように現在の姿とはかなり違う状態だったと思います。
投稿: 西川敏弘 | 2007年1月 7日 (日) 13時00分
電話リクエストに関するトラックを見つけましたので一言、
何故、ラジ関の電話リクエストが流行ったのか?
わたくしが考えるには、音楽を介してメッセージが送れると言うのが受けたのかも知れません。
当時、メッセージを送るには電話・手紙位しかなく
堅苦しい手段です。ところが、音楽番組で、ちょっとしたメッセージ付きの音楽を公共の電波で送れる・・・・しかも、受け付けてくれれば、必ず流してくれるので、次第に出会いの場にもなった。事実、電リクによって生まれたカップルもいたと言う記事を見た記憶が有ります。
ではなぜ、すたれてしまったのか?
これはやはり、TVの普及でしょう。ラジオを聴きながらメッセージを聴くなんて悠長な時代で無くなった。TVならリアルタイムに一番流行りの曲を映像で見ることができますので、・・・・
そんなTVもインターネットが普及すると、すたれてしまうのですが・・・・。
投稿: 杉ちゃん | 2012年3月10日 (土) 00時02分
横から割り込みコメントする失礼をお許しください。
ラジオ関西から、なぜ電話リクエストが消えたのかというのは
それほど単純な問題ではないだろうという気がします
ラジオ関西が電話リクエストをいったん中止したのが昭和45年5月頃で
FM大阪開局直前のことで、これが関係あるのだというのが西川さんの持論で
あったと思います(かなり以前に発言されていました)
携帯電話の普及とか、メールの普及とかは関係ない時代であったと思います
ましてTVの普及は昭和30年代前半のころなので、昭和45年にやめたのは不自然です
むしろ電話の家庭への普及が100%に行かない時代になぜ早々に退散したのか
私も実は考えれば考えるほど不思議でした。ぜひ一度そのあたりをお聞かせいただければと
思います。おそらく 回答しにくい問題もあるのでしょうがよろしくお願いします
投稿: 558 | 2012年3月15日 (木) 02時28分
このことについては、また別途記事にしたいと思いますが、下記の最近の記事でもラジオ関西の電話リクエストがどのようにして1年中毎週7日間午後7時からとなったのか、それがどうしてなくなったかということを電話リクエストという番組の質や評価が突然かわったのではなく、もっと違う理由で変化したように思います
http://jf3mxu.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/201231560-8076.html
投稿: 西川敏弘 | 2012年3月16日 (金) 09時57分
この記事にアップされている写真を見ると、その日の放送で、あらかじめ選定された曲は、当時のスタッフがその都度、レコード室に集められた豊富な洋楽レコードの中から、特に厳選した曲ばかりだったのでしょうかね。おそらく、洋楽の中でも、質の高い曲ばかりを、毎日20曲選定したのではないでしょうかね。この辺にも、ラジオ関西の洋楽リクエスト番組が、曲の質も重視したハイグレードなものを目指していた事を示しているのでしょうね。
投稿: らぶSun | 2012年3月18日 (日) 23時09分
公開放送であれば、公開場所でのレコードをかけるのも大変だったと思いますが、本社や大阪スタジオでは電話でのリクエスト曲をそのたびにレコード室から出していたのでしょうね。現在のラジオ関西では、レコード倉庫が西神(西区)にあり、本社にすべての在庫があるわけでないので再開には難しい問題もあるように思います。特に電話リクエストは電話受付だけでも10名近くの女性アルバイトとか、まさに人海戦術の力技の要素もあったのでしょうね。もっともらぶSUNさんの言われるようハイグレードなものを目指していたプロデューサの存在を忘れてはならないと思います。
投稿: 西川敏弘 | 2012年3月19日 (月) 01時15分